胃が膨らむと満腹になる?
性欲・食欲は動物の二大本能だという。種の保存がなければ子孫は残らないし、食べなければ生きていけない。どの動物にも共通である。その中でも食欲の話は、味覚の話まで広がり、人間らしさを感じさせて興味が尽きなかった。
「腹が減った」と言いながら、おなかの辺りに手をやるしぐさをすることがある。昔は胃がすぼんだりふくれたりすることで、食欲を調整すると考えられていた。それを証明するために、胃の中に風船を飲み込ませ、空気を送って膨らませて満腹感が出るかどうか実験までやった記録が残っている。
ところが、医学が発達し、胃を切除する手術をした後も、満腹感や空腹感を感じる。動物実験によって食欲の司令塔が明らかになっていく。
脳の三層モデルをもう一度ご覧いただくと分かると思う。

動物実験で食欲コントロールを解明
世界の多くの研究現場で試されていたのが、動物の視床下部を破壊する実験だった。脳定位固定装置で、脳の視床下部あたりに微小電極を差し込んで固定し、微小電気を送って細胞を刺激する実験が繰り返し行われた。
ネコの視床下部のある部分を刺激すると、途端にカミカミと咀嚼する動作をする。餌をたくさん与えた後もそこを刺激すると、とたんにがつがつと食べ始める。その仕掛けは、ネコも人間も同じである。
「食行動を発動したり停止する情報は、視床下部の特定の神経細胞群から出ているもので、情報は辺縁皮質へと送られていく」と時実先生は言う。視床下部の外側を壊すと、ネコは何も食べなくなりやせ細っていく。その近隣にある細胞群を壊すと今度は際限なくエサを食べて、たちまち肥満ネコになる。食欲の中枢は視床下部にあったのだ。
人間は前頭前野で理性的にコントロール
医学的に説明すると、食欲をコントロールする視床下部の細胞群は、常時、血中のブドウ糖の濃度を測定している。低下すると食行動を促す情報を辺縁系に出して食行動を起こさせる。ネコのカミカミ行動である。
人間はちょっと違う。満腹中枢がまだ満たされず、もっと食べたいと思っても、ダイエット中の人は、ぐっと空腹感を抑えて我慢する。その思考と判断と抑制行動は大脳の前頭前野でやっている。そこは人間だけが発達している。ネコはやらない。そういうシステムで食欲はコントロールされているようだ。
視床下部で血中のブドウ糖の濃度を測定し、一定の濃度を下回ると空腹中枢に情報を送って食行動を起こし、濃度が満たされると満腹中枢に情報を送って食行動をやめさせる。ただし「今夜は徹夜覚悟だから、もっと食べておこう」とか「ダイエット中だから、これ以上食べるのはやめよう」などの判断は、人間だけに与えられている前頭前野の働きだと時実先生は解説してくれた。
さらに進んだ食欲の原理解明
1970年代の先端医学では、おおむねこういう理解でよかった。それから50年経って食欲の仕掛けの解明はものすごく進展した。視床下部で血中のブドウ糖濃度を測定し、低いと空腹中枢に働き、高いと満腹中枢に働く仕掛けは基本モデルとしては正しい。しかし現在は、食欲にはホルモンなど多くの要因が関与する複雑な調節系として解明されてきた。視床下部は、胃・腸・膵臓など全身の臓器から送られるホルモン情報や血糖値などを統合して、空腹や満腹を調節し、食行動をコントロールしている。
その仕掛けは、専門的で細かい説明になるのでここでは割愛し、味覚の取材へ広げたい。
ブルーントレインで味覚の研究現場へ
東京駅から寝台特急「はやぶさ」に乗車して翌朝、熊本に着く。当時、評判だった憧れのブルーントレインに乗って熊本大学医学部生理学、佐藤昌康教授に取材に行った。佐藤教授は世界的にも注目されている味覚の研究をしていた。おびただしい動物に微小電極を植え込み、興味あふれる研究成果を次々と発表していた。
佐藤教授の解説では、舌の表面にある味蕾(みらい)細胞の受容体が食べ物の分子と結合し、その情報が神経を伝わって視床下部に届き大脳味覚野で味を感じるというものだった。その後、味覚の仕掛けの研究が進展しているのでその情報に従って甘さを感じる道筋を書くとこうなる。
砂糖をなめると、砂糖分子が舌の味蕾細胞の受容体に結合する。その情報は電気信号となって味覚神経を通り、延髄、視床を経て大脳の味覚野に伝わり、そこで「甘い」と認識される。その模式図がこれになる。「甘さ控えめ」、「甘さにコクがある」などはすべて大脳味覚野で判断している。

動物の種によって違う「味わい」
下の顕微鏡写真は、佐藤教授から提供されたラット(実験用の大型白ネズミ)の舌の断面写真である。すき間に食べ物が入ると味蕾から出ているヒゲで味を感じる。これが電気信号となって次々と脳の神経系統をさかのぼり、最終的に大脳の味覚野で判断する。

ただの水(実験では蒸留水を使う)を人間がなめても、無味の水であるが、カエル、イヌ、ネコは違うという。彼らはただの水ではなく「味わい」を感じ取っていることが分かった。味覚をとらえる神経細胞から電気的信号が出るから分かるのだ。味覚を感じない場合は、この信号は出ない。信号の強弱によってどの程度とらえているかも、これでわかる。
「動物の種族によって、感じる味覚も違うのです。これは意外でした」と佐藤教授は語っていた。
蒸留水、甘さ、にがみについて下記の動物たちに実験してみると、種によって「無反応」から「非常に敏感」まで大きな差があった。ネコは甘さを「ほとんど感じない」し、イヌはにがみを「ほとんど感じない」だった。ペットで同居しているワン・ニャンに試してみると分るかも知れない。

ネコ舌はこのせいだろうか
舌の表面を顕微鏡で観察すると突起(乳頭)が点在している。舌の表面がザラザラしているのは、このせいだ。乳頭には味覚を感じるものと触覚や温度感覚を感じるもの(糸状乳頭)がある。ネコは、この糸状乳頭が多いので特にザラザラしている。ネコ舌と言われるように、熱いものに敏感なのはこのせいだろうか。
乳頭の中に味蕾と呼ばれる花のつぼみ(蕾)のような細胞が1万個もあり、この細胞のヒゲに食べ物が触れると化学反応を起こし、電気信号に変換され神経線維を伝わって視床から大脳へと送られ、奥深い「味わい」を感じている。
味わいはパターン認識で行うため、同じようなパターンが来ると錯覚する。例えば砂糖とよく似たパターンを示す人工甘味料がそれだ。大脳はだまされて「甘い」と感じてしまう。パターン認識とは何か。ここでは、科学的に正確な説明は難しいのでこれも割愛したい。神経細胞網群のネットワークという言い方は、筆者が勝手に思っているパターン認識だが・・・。
佐藤教授によると、味覚の研究を進めていると「人間は草食動物の系統ではないかと推測されます」と語っていた。また、味覚は加齢とともに鈍感になり、味が濃くならないと美味しくないと文句を言うようになる。男女にも差があり、女性は男性よりも味覚に敏感だと聞いた。
嗅覚の仕掛けも味覚と同じ
鼻の奥にある嗅粘膜には、嗅覚細胞がぎっしり並んでいる。群馬大学医学部生理学の高木貞敬教授の研究室に取材に行った。ここでは食用ガエルを実験材料にして研究していたが、においの仕掛けも原理的には味覚の道筋と同じである。
においを最初にとらえるのは鼻の奥の嗅細胞であり、においを発する分子と結合して科学的変化を起こして電気信号に変換される。これが嗅粘膜のすぐ上にある嗅球で中継され、辺縁皮質から大脳へと伝わってにおいを感じ取る。
高木教授は「嗅覚には、味覚の4原則(しょっぱい、にがい、甘い、すっぱい)や視覚の3原色(赤、緑、青)のような基準臭がありません」と語っていた。現在も、嗅覚の基本臭は決められていない。


コメント