名古屋大学にいた世界的英才を取材
1971年ごろ、DNAの構造発見から分子のふるまいの新たな知見が次々と発見され、分子生物学と言う新しい学問が勃興して世界の研究現場は沸き立っていた。
そのころ分子生物学の先端を走っているのは、名古屋大学の英才たちと聞いていた。ともすれば東大一辺倒の学問の世界で、名古屋大学が出てきたのは意外感があった。中澤デスクと二人で泊りがけの出張取材に出かけた。そのころ中澤デスクと筆者がむさぼるようにして読んでいた書籍集があった。刊行して間もない「みすず科学ライブラリー」である。新幹線の座席に座るとすぐ、中澤デスクと筆者はこのシリーズの書籍を取り出して広げたので、二人で苦笑したことがあった。このシリーズは今でも大事に保管してある。
細胞分裂のときDNAはコピーされていく
人間に限らず生物は、細胞分裂して増えていく。1個の細胞が2個、4個、8個・・・と倍々に増え、途中でそれぞれの役割の細胞に分化して一人の人間を形成して生まれてくる。一人の人間は、当時60兆個と言われていたが、今は37兆個になっている。ともあれ、両親から受け継いだ受精卵は、ただ1個の細胞であり、細胞核に収納されている遺伝子DNAは、ただ1つでしかなかった。それが分裂を繰り返して一人の人間に成長し、母親の母体から生まれてくる。
人間と言う一つの個体を作る「設計図」は遺伝子DNAであることが分かった。そのDNAはたった4種の塩基が際限なく続いている化学分子であることも分かった。全細胞に全く同じDNAが配置されていることも分かった。どの細胞核にも同じDNAが格納されている。と言うことは同じDNAをどのようにコピーして細胞分裂とともに配置されるのか。

読売新聞 1971年7月 25日付け「人間この不可思議なもの」の掲載された、岡崎令治先生の写真と岡崎フラグメントを解説したイラスト。
DNAが二本に分かれて再生する
細胞分裂はまず、遺伝子DNAが全く同じ2個に分裂しなければならない。どうして全く同じ2個になるのか。ジッパーを開いていく光景を思い浮かべてほしい。太い1本が、細い2本に別れていく。DNAを構成する梯子段も、真ん中から2本に別れていく。このとき1本の塩基の並びが仮に「AGTCAG・・・」と並んでいたら、もう1本の塩基の並びは、「TCAGTC・・・・」と自動的に決まる。AはTとGはCと相補的に結び合っているからだ。
逆方向に相補的に作っていく
2本に別れても、相補的に相手の塩基が決まっているので、それを補うと完成した1本になる。つまりDNAが真ん中から2本に別れ、相補的に塩基を補充して新しい1本ずつを作り上げて2本になる。実に巧妙にできている。このようにしてDNAは、全く同じ2本に分裂し、細胞核に収まって細胞分裂をしていくと考えられていた。
ジッパーの開く光景を思い出すと、開く先からジッパーの片側を補充して新しいジッパーを2本作っていく。補充するのは、相手方と相補的な塩基と決まっている。DNAが分裂した先から、新たな塩基を補充して2本に完成する。ほとんどの研究者は、なんとなくそう考え、疑問も抱かなかった。
名古屋大学理学部の少壮の研究者として頭角を現していた岡崎令治教授は、取材で訪問した私たちにこう語った。
「DNAが2本に別れた先から同時進行で、次々と相補的な塩基を付けて新たなDNAを作成するという考えは、ちょっと違うのではないか。生物が体内で高分子を生合成していくとき、必ず一定の方向にだけ部品を重ねていくのが常なのです」
そう言われても、にわかには理解できなかったが、DNAの分裂の詳細を聞いていくうち、驚くべき事実を示されて、DNA複製の精妙な仕組みを知った。
不連続で合成するDNAの複製
もう一度ジッパーを開いた図を想像してほしい。細いジッパーの片割れが2本できる。2本の細いジッパーの相手の塩基は相補的に決まっているので、それを補充して完成した新しいジッパーを2本作る。その作り方は一方は別れた先から補充して作るが、もう一方は、別れた先の最後の部分から逆行して作っていくと岡崎教授は語った。
図解的な言い方をすると、2本に別れたDNAの片割れが、1つは右から左へ塩基を付けて完成したDNAにする。もう一本は、反対の左から右へ塩基を付けて完成したDNAを作成する。しかも一気におしまいまでその反応で進むのではなく、ある単位ごとに新しいDNAの断片を作成し、それを次々とつなぎ合わせて完成した1本にする。
「なぜそのような込み入った方法で複製するのですか?」と質問してみた。
「DNAを合成する酵素(DNAポリメラーゼ)は、『5’から3’』という一方向にしか進めないという制約があるのです。2本に別れたDNAの一方は進行方向にするすると合成できますが、もう一本のDNAは進行方向とは逆に合成しなければならないので、不連続的に短いDNA断片を合成するのです。その断片を岡崎フラグメントと呼ばれるようになったのです」
細胞核の中で、新しく複製されかかっているDNAの断片(岡崎フラグメント)がバラバラの状態であるのを、最後にDNAリガーゼという「糊付け酵素」でつなぎ合わせて新しい1本のDNAにするという説明には、本当にびっくりした。
世界が認めたシンポジウムでの発表
筆者らが岡崎教授に取材したとき先生は40歳であり、温和な無駄のない語り口で、初心者にも分かるように説明する話法には舌を巻いた。30歳でアメリカに留学し、1959年にセベロ・オチョアとともにノーベル生理学医学賞を受賞したアーサー・コーンバーグのもとで研究をしていたこともある。コーンバーグは、DNAの合成酵素のDNAポリメラーゼを初めて単離したもので、その成果の先に残されていた課題を新たに発見しそれを解決した大業績であった。
「岡崎フラグメント」の業績はまだ一般に知られていない時期だったが、先端の研究者らは高く評価していた。帰り際、教授はアメリカのコールド・スプリングハーバー研究所のシンポジウムで発表したとき、世界中の分子生物学者が驚き、その発表の要約をコピーして寄越した。その中に次のような一節があった。
「岡崎とその共同研究者らは、ただ座っていればよかった。ほかの研究者らが花を投げてくれたのである」
ここで言う花とは、岡崎フラグメントの発見を裏付ける3人の研究者らが、このシンポジウムで発表した3本の論文を指している。
突然の別れと恒子夫人の共同研究の成果
岡崎教授は、この研究成果を確定するためにツメの研究を重ね、岡崎フラグメントの存在を確定した。そのとき実験研究に大きな貢献をしたのは、恒子夫人だった。2人は名古屋大学理学部の同窓生だった縁で結ばれ、令治教授が理論を提示し、それを恒子夫人が実験的に証明するという二人三脚の成果を重ねていた。
1975年10月、岡崎教授はアメリカ出張中に倒れ、44歳の若さで急逝した。死因は白血病だった。広島への原爆投下の直後に被災地に入ったことで被爆し、白血病になっていた。まだこの医療が未発達の時期だったため亡くなった悲運は、誠に残念だった。
岡崎教授の遺志を継いだ恒子夫人は、岡崎フラグメントとDNA複製の証拠を積み上げ、学術研究に多大な成果を残した。名古屋大学で初の女性教授になり、のちに名誉教授になった。恒子夫人はこの業績が認められてロレアル・ユネスコ女性科学賞、文化功労章、文化勲章を授与されている。
岡崎教授が健在であれば、恒子夫人と一緒にノーベル生理学医学賞か化学賞を授与されただろう。ノーベル賞は生存者のみに授与するという内規があり、受賞はかなわなかった。筆者はその後、ノーベル賞の研究でストックホルムのノーベル財団にたびたび取材に訪れ、内外の多くのノーベル賞受賞者とも会見してきたが、岡崎教授夫妻の業績は、こうした受賞者と比べてもそん色ない業績であり、受賞して間違いないと確信してきた。誠に惜しい早世であり、原爆犠牲者であった。
DNA複製の仕組みを解明した業績は、がん研究、老化(テロメア)、遺伝子工学などにも波及するものであり、分子生物学の基本を解明した金字塔である。
ここで短絡的に岡崎フラグメントのすべてを紹介することは困難である。生命誌研究館の生命誌アーカイブの中で恒子夫人が書いた「岡崎フラグメントと私」は、感動の名筆であり、是非、こちらにジャンプして拝読していただきたい。 https://brh.co.jp/s_library/interview/32

並々ならぬ努力に敬意を表してやまず
発生学の権威として知られる東中川徹・早稲田大学名誉教授は、次のようなコメントを筆者に送ってきた。
「この名文を読むたびに、並々ならぬご苦労に対して敬意を払わざるを得ません。分子生物学上の大発見が、日本人の手でなされたことに大いなる喜びを感じます。RNAprimerの発見、その存在の確証を得るための努力は、相当なものであったことがうかがわれます」
東中川徹先生は近著「分子生物学15講[基礎編]」(東中川徹、桑山秀一、川村哲規・共編、Ohmsha)の編著者であり、この中でも詳細に岡崎フラグメントを解説している。



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