「オペロン説」で知った精妙なDNAの姿
遺伝子DNAは、人間を形成する約60億個の細胞全ての細胞核に保管されている。眼に見えない微細な化学分子の中に、たんぱく質の製造を規定するアミノ酸配列がきちんと配置されており、生命活動はこのDNAの必要な情報だけを抜き取る形で使用して私たちは生きている。
そのような説明を聞いてもまだ、体内で瞬間的に展開されているDNAの機能を理解できないでいた。DNAは単なる4種類の塩基のつながりではないか。そう思っていた。
「単に情報がつながっているのではありません。DNA機能を指揮命令する配列がグループを作って配置されています」
九州大学薬学部の堀内忠郎教授はフランス・パスツール研究所の分子生物学者、フランソワ・ジャコブとジャック・モノが1962年にノーベル生理学医学賞を受賞した「オペロン説」の解説を始めた。
DNAはたんぱく質を製造する設計図と言うが、いつどうやって機能を発揮するのか。普段は眠った状態になっているが、必要になったときだけ働く。「無駄なエネルギーを使わないようにできている」と言う。
堀内教授の研究室で行っている、大腸炎を使った実験は、次のようなものだった。
大腸菌がたくさん浮遊している溶液にラクトース(乳糖)を注入してやる。大腸菌は普段はラクトースを使っていないので、吸収することも分解することもしない。しかし、周りがラクトースだらけになってしまうと大腸菌は、これを分解するためにラクトース分解酵素を作り始める。分解してラクトースがなくなると分解酵素を作ることもやめる。大腸菌が行っているその流れを堀内教授は白版に書いて説明した。
大腸菌の中にラクトースがあるときの流れ
- ラクトースがリプレッサー(遺伝子の制御装置)に結合する
- 制御装置のリプレッサーが外れる
- RNAポリメラーゼがDNAに結合し、遺伝子の情報をRNAに写し取る(転写)
- RNAをもとにラクトースを分解する酵素(タンパク質)が作られる
つまり、ラクトースが存在すると、抑制していたリプレッサーが外れ、遺伝子の働きがオンになる。その結果、ラクトースを分解する酵素が作られる。ラクトースがなくなると、再びリプレッサーがDNAに結合し、酵素の合成は止まる。
これがフランスのジャコブとモノがノーベル賞を受賞した「オペロン説」と名付けられた理論だ。環境に応じて遺伝子の働きを調節する仕組みを示した、画期的な発見だった。必要なときだけ酵素を作ることは、エネルギーの節約にもなる。
堀内教授は、大腸菌でこの実験を確かめ、DNAの脅威の役割を解明した。
後年、ジャコブ博士は、読売新聞の招きで来日し「ノーベル賞受賞者フォーラム」で講演した。このとき筆者は初めて、直接、ジャコブ博士の話を聞いて感動した。


上の2つの図は、AIが作成したオペロン説の解説図である。
ハサミとのりでDNAを修理する
地球上には人間と敵対する生物があふれている。病原細菌・ウイルスのほか、自然界に散見する動植物の中に多数存在する。人工的に作成した化学物質は公害や薬害を引き起こす例が後を絶たない。その多くがDNAに付着してしこりを作ったり塩基配列を破壊する。その結果、先天性の障害を負ったり病気を背負うことにつながる。しかし生体は事前にDNA段階でその異変を察知して、DNAを「修理」して正常な塩基配列に直すことをやっている。まるで人間がやるようなことを、遺伝子のレベルでやっているという。
「DNAの損傷(しこり)をハサミで切り取り、正常なDNA塩基をノリで修理する。実に巧妙な方法で生体の健康を保持しているのです」
取材で訪問した九州大学理学部分子遺伝学の関口睦夫教授は、こう語って筆者を驚かせた。関口教授がいうハサミとノリ(糊)は、どちらも酵素(たんぱく質の一種)であり、これもまたDNAをもとに作っているものだという。
関口教授が研究していたのはT4ファージという、大腸菌にたかるウイルスを材料にした基礎研究である。ウイルスは自己増殖できないため、大腸菌のようなバクテリアに感染する生物体だと初めて知った。ウイルスは生物ではないのでそういう呼び方をするという。だから抗生物質は効かない。そういう理屈もこのとき初めて知った。
DNAにただ1か所のしこりができることでダウン症が生まれたり、様々な障害を背負って生まれてくることがある。いまは妊婦の羊水のDNA検査で、重度の障害児誕生の危険や母体の精神・身体的危険性がある場合は、人工流産が可能になった。こういう話は、後々の取材で専門医から「人間は誰でも奇形を大小20種くらい持っています。自身も知らない目立たないところであり、知らないで一生を終わる。自分は幸運だったと思いなさい」と言われて驚いたことがあった。
一人前に育ててくれた連載シリーズ
この一代記で「人間この不可思議なもの」シリーズの報告を書いているが、この内容をすべて報告はできない。何しろ一冊の本として刊行したくらいの情報量があるからだ。連載の最後は、1971年10月3日の「死と生の交錯 そこに進化の光」のタイトルで終わるが、メイン原稿は中澤デスクが書き、私は脇に添える2本の原稿執筆で筆を置いた。原稿の最後に(おわり)と書き終えた中澤デスクが、その個所を見せて握手の手を差し出してきた。筆者はその手を両手で握りながら、泣きそうになったことを思い出す。
このとき筆者は30歳であり、記者としてはまだ若僧だった。しかしこの1年間で新聞記者として一人前になったような気がした。中澤デスクと一緒に取材することで相手から話を引き出す話法を見て習い、高度に専門的な研究内容を一般読者でも興味を引いて読むように書く手法を習った。
さらに「一生もの」と思ったことは、医学的基礎知識を叩き込まれ、自身も勉強したことで自信が生まれた。記者生活のなかで、最も勉強した1年であり、DNAの基本的仕組みをほぼマスターした1年でもあった。その知識がその後の記者活動や自身の健康管理にどれほど寄与したか分からない。そのような幸運を運んできてくれた、2人の偉大な先輩のことを改めて次回の総括で書きたい。
「人間この不可思議なもの」連載シリーズの全37回の取材一覧表を参考まで掲出します


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