勉強に明け暮れた1年間
1970年の秋から始まった年間企画「人間この不可思議なもの」の準備・取材・執筆では、取材する時間よりもはるかに勉強する時間の方が長かった。原稿執筆も大変苦労したが、共に取材して執筆した中澤道明(1922-2007年)社会部デスクは、もっと大変だったに違いないと今になって思うことがしばしばある。
1ページ特集を毎週1本、1971年1月から同10月まで。事前準備を含めると丁度1年間をこの企画に没頭した。読売新聞35年の記者生活の中でも、最も勉強した1年間であり、最も自己啓発された時間だった。筆者の記者一代記の中でも間違いなく充実した年であり、その後の記者活動に多大な影響を与えた。そうなったのも、偉大な2人の先輩との出会いがあったからだった。
偉大な記者・辻本さんとの出会いの幸運
「人間この不可思議なもの」というタイトルを考え、このテーマの連載を下命した辻本芳雄さん(1919-1978年)には感謝しかない。その気持ちは年齢を経るに従って筆者の心の中で膨らみ、幸運だった記者生活をかみしめることが多くなった。
辻本さんの姿を見たのは、読売新聞入社の5か月ほど前が最初だった。辻本さんは編集局写真部長を務めたあと、社長直属の総合科学技術会議事務局長に異動し、時期を見て社会部長に予定されている人だった。話をしたことはなく、人事部の方から「あの人が辻本さんだよ」を言われ、遠くから見た記憶があった。
事務局は、電子計算機(コンピュータをそのころそう呼んでいた)を導入するための部署であり、新聞の自動編集まで視野に入れていた。そのため筆者は、入社直後に日立製作所に「出向」で半年間出され、紙面の一部をコンピュータで編集して組上げるプログラム作成の一人になって奮闘した。日立グループの優れた人たちに揉まれて一番、難しいルーチン(システムプログラムの一部)を担当したことは大きな自信につながった。
新聞編集のイロハを学ぶために、4か月半、地方部の整理をしたことがあった。見出しを付け、地方版の編集作業の助手をしたもので、最後の方は一本立ちして紙面を1人で組んでいた。それが新聞記者の仕事だと思って張り切ってやった。
また入社の半年ほど前に社に呼ばれ、大学で統計学と電子計算機を学んでいたとの理由で、国政選挙の事前調査から開票結果を予想するため、港区広尾にあった文部省統計数理研究所の青山博次郎部長の研究室で「研究するよう」に命じられた。都合のいい日に直接、青山研究室に「出勤」し、時給でバイト代を支払うという話だった。当時のバイト代の相場をはるかに超える破格のコストだった。
電報(自宅にまだ電話はなかった)で呼び出しがあり、内定取り消しかと緊張して人事部に行ってみたら、選挙予想を勉強させるという新聞社のやり方に度肝を抜かれた。それは入社後に直属の上司となる辻本さんの発案だったと後でわかる。東京北区王子にあった辻本さんの自宅に呼ばれ、話を伺う機会が何度かあった。大阪弁なまりで従軍記者として南方に向かい、理不尽な軍の有様を話したのをよく覚えている。後年、「昭和史の天皇」の執筆に取り組んだのは、軍国主義とそれに翻弄された昭和天皇の真実の姿を残そうという動機につながったのだろうか。折々「これからは科学が分かる記者が必要だ。君には地方に赴任させないで、本社で勉強させる」ということをたびたび語っていた。
「新聞記者は、ほんまにアホらし」いう言葉が口癖で、いかに読者に真実を伝えることが大事な役割か、自身の失敗談を織り交ぜながら、熱を込めて語ることがあった。先妻を肺結核で亡くしたあと再婚するが、そのお相手を「君が一番目だ」と冗談を言って銀座の酒場で面談する機会があり、ご夫妻に筆者の結婚式の媒酌人を引き受けていただく縁にもつながった。
給仕からたたき上げた英才
辻本さんは弱冠30歳で本社社会部デスクに抜擢された方で、学歴は本人が言うように中卒(高等小学校卒)だった。最初それを聞いたときは冗談だと思っていたが、父親が早世したあと読売新聞大阪本社に給仕として採用されたという。当時、記者たちの周辺で雑用をする少年のことを給仕と呼んでいたが、辻本さんは、たちまち頭角を現し記者として採用される。さらに抜群の筆力を買われて東京本社の社会部に抜擢される。呼んだのは当時の社会部長の原四郎氏だった。
そこでも才能を発揮し、30歳の若さでデスクに引っ張りあげられ、「ついに太陽をとらえた」というタイトルで、原子核の分裂・融合を解説しながら原子力の平和利用を見据えた連載物を1か月展開した。中村誠太郎・東大理学部助教授校閲という付記が付けられてあった。

1959年1月1日付け読売新聞社会面トップ。「ついに太陽をとらえた」第1回目の記事

連載後に刊行されたこの本は大きな反響を呼んだ。
いまその連載を読んで見ると、事件・事故、不祥事などでほぼ埋められていた往時の社会面で、このテーマで1か月も連載したこと自体、驚きである。原爆被災国の日本は、核分裂や放射能にはことのほか敏感だったが、辻本さんはこれを乗り越えて平和利用する時代が来たことを告げたもので、社の内外でも大評判となった。その時の体験から焼津のマグロ漁船が、ビギニ環礁の水爆実験の降灰を浴びて原子病にかかったことをいち早く見抜き、「死の灰」の被災として世界に発信したデスクとして、その力量と評価を不動のものにした。
科学ものに興味を持ち、なんでも先んじて報道することが好きだった人で遺伝子DNAの話題が大きくなるにしたがって、分子生物学に興味を持ち、大脳生理学と分子生物学の最先端研究を取材して連載するように提起し、最も信頼していた社会部の中澤デスクに下命したものだった。
このテーマで日曜版に週1回の1ページ特集の長期連載企画が実現したのは、辻本さん(当時編集局総務)が言い出したことだから許されたものであり、大半の社会部記者は関心が薄かったと思う。
異質の社会部デスクだった中澤さん
中澤デスクは元同盟通信社(戦前の国策報道機関)の記者だったが戦後、同社の解体で読売新聞に途中入社した。社会部に所属しながら抜群の語学力と国際センスを買われ、ベトナム戦争中のハノイ常駐特派員を命じられ、数々の戦況報道を送ってきて評判をとった記者だった。
ベトナム戦争後には、返還前の沖縄の常駐特派員として那覇に駐在し、沖縄返還後は頻繁に外国の移動特派員として海外を取材して歩く国際記者だった。米軍に施政権があった沖縄の理不尽な扱いを筆者は度々、中澤さんから聞いていた。徐々に沖縄返還に興味を持つようになり、返還から50年の年に「沖縄返還密使・密約外交 宰相、佐藤栄作最後の一年」(日本評論社)を筆者が上梓できたのは、中澤さんからの多大な影響があったからだ。この話は、先に行ってから詳しく報告する。
中澤デスクと筆者の接点は、筆者がサツ回りで大学紛争や高校紛争の取材に駆け回っていたとき、社会面で「高校バリケード」のタイトルで高校紛争の状況を連載することになり、担当デスクの中澤さんと初めて対面し、取材する指導を受けたことだった。
全国6地域の記者との共同チームであり、東京本社からは社会部の4人が参画した連載物だった。その縁があって、「人間この不可思議なもの」の担当を中澤デスクから下命され、よく事情が分からいまま参加したものだった。
勉強にのめり込んだ日々
「わしは中卒だが、生物学はなんとなくわかる。しかしそれに分子がついた分子生物学とは分からん。ノーベル賞が出たりして、将来展望のある学問らしい」、だから「読者が分かるような連載をしろ」と中澤デスクが言われたという。「これが辻本さんの感性なんだよ」とも言った。
それからは毎日、大脳生理学と分子生物学の文献を集めて私たち2人の勉強が始まった。当時、銀座にあった近藤書店から好きな書籍を社のツケで次々と購入し、片っ端から読んでいった。同時進行で、大脳生理学の権威、時実利彦・東大教授や分子生物学の渡辺格・東大教授らを何度も訪問して、企画案を固める日々に追われた。このお二人の先生からは、それぞれの分野で世界の先端研究とそん色ない業績を出している研究者を聞き出し、取材リストを作っていった。
当時5万円はいま20万円相当か
この取材が特異だったのは、取材謝礼の額だった。取材に行った先生には謝礼5万円を包んで持参した。今の物価なら20万円相当だろうか。どの先生もこれには驚き、受け取れないと「辞退」する先生もいたが、無理やり置いてきた。これは中澤デスクと時実先生が決めたことであったが、辻本さんが「了解」を出したので、編集庶務部もしぶしぶ認めたのだろう。
取材に行ったどの研究者も非常に親切に応じ、こちらの知識が足りなければ親身になって教えてくれた。京都大学の生化学の教授(お名前が思い出せない)には、ほぼ一日費やして、DNAの構造解析から遺伝子の役割まで詳細な話を聞く機会があった。
それまでぼんやりとしか分からなかったいくつかのことが明確に理解でき、その後の取材の自信につながった。これは「取材でなく家庭教師だね」と中澤デスクと苦笑しあったこともあった。
「間違えるな、錯覚を抱かせよ」
中澤デスクの筆さばきは「絶妙」としか言いようがない。二人で取材に出かけ、小さなバッグほどもあるソニーのテープレコーダーに録音してくる。帰社するとすぐに聴きなおして原稿執筆にとりかかる。連載出だしのころは、もっぱら中澤デスクが書き、出来た原稿を私に寄越して「どう?」と言ってきた。
デスクの原稿を駆け出しのヒラ記者が読む。これは記者生活をしていくうち分かったことだが、誰かに読んでもらうことで、うっかり気が付かなかったことを指摘してもらうことが狙いだったのだろう。一緒に取材した現場の話を、面白くわかりやすく書く筆力に舌を巻いた。
3回目くらいから「馬場さんも書いてごらん」と言われた。もう、見習いを卒業して一本立ちを望んできたのだ。原稿を書きながら、常に「ここは中澤さんならどう書くだろうか」と思いながら筆を進めた。
中澤デスクは「正確でないとこの種のネタは失敗に終わる。正確に書くと分かりにくくなる。そうかあ、分かった、なるほどなあ・・と思わせる書きぶりが一番だ。つまり分かったと錯覚を抱かせる原稿が、一番だよ」と言った。
僅かな紙面の中で、研究者が一生かけて取り組んでいる研究内容を正確に紹介するのは、どだい無理な話だ。しかし間違えてはならない。なるほどそうだったのかと錯覚を抱かせる原稿が一番だとデスクは言う。
この感覚は、科学ものをネタにして多くの原稿を書いてきた筆者にとって、今なお抱く金言になっている。
「間違えるな、分かったと錯覚を抱かせよ」。これは名言である。錯覚と言っても間違いを抱かせるのではない。原稿の筆の進め方で理解する方向へと誘導することを語った言葉だ。研究者に読んでもらった時「うまく書くもんだねえ」などとおだてられると、天にも昇る気持ちだった。若い時代、この高度な書きぶりを身近に見て覚えたことは、歳を経るに従って段々と身に着くようになっていった。
中澤さんは、編集局参与(編集局次長待遇)を最後に定年退職し、上智大学などで教壇に立つ教員に転出した。同時にいくつかのジャーナル啓発書を上梓した。

上智大学新聞学科で講義する中澤道明さん。多くの新聞記者を同大学から世に送った。
中澤道明さんの著書・編著書
「高校紛争の記録」(学生社、 1971年)
「人間この不可思議なもの」(読売新聞社、1972年)
「大学受験のための小論文の書き方」(三修社、1975年)
「他人の気付かないことを考える本」(日新報道出版部、1975年)


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