大事件・事故が頻発した2年間
1971~72年の2年間を振り返ってみると、筆者の人生の中でも大きなニュースが発生した期間だったように思う。「人間この不可思議なもの」の企画を担当していたので筆者が直接かかわったことは少なかったが、沖縄返還だけは、50年後まで引きずったテーマになった。

1971年、72年に社会を騒がせた大きなニュースを筆者の目線で拾い上げたリストである。


日中復交のシンボルとなったカンカン(右)とランランの来日は、日本中を沸かせた社会現象となった。
身近に見たベテラン記者の物腰
連載企画をしているからと言っても、大きな事件・事故があれば、4階の仕事場から3階の社会部に行って手伝いをする。過激派学生の取材では、筆者がサツ回りで慣れていたので、呼び出されて出ていくこともあった。
71年7月に相次いで発生した東亜国内航空機と全日空機の墜落事故は、社内での取材作業に加わったが、現場に出ていく遊軍の先輩記者らの手際いい準備と行動を身近に見て感心した。
新聞記者とは、こういうものだったんだという感慨である。デスクに「おい、現場にいってくれ」と下命された遊軍記者は、バイトさんに手伝わせ、あっという間に新聞切り抜き類、原稿用紙、取材手帳、筆器具、雨合羽、出張前渡金などをデスクに並べて点検し、「よしっ」と気合を入れてバッグに詰め込むと、逃げるように小走りで出ていく。半日後には、現場から臨場感あふれる原稿を電話で次々と送ってくる。憧れに似た気持ちで、原稿を受けたことが何度もあった。これが昭和時代の典型的な社会部記者の姿だった。
「わたしのドラマ」執筆に加わる
あるとき、4階の日曜版編集部の中澤デスクから呼び出しがあった。「糸川英夫」とメモ書きした紙片を寄越し「これ、書いてよ」と言われた。「人間この不可思議なもの」が終わった後の紙面に、今度は「わたしのドラマ」という大型企画が入ったもので、この担当デスクも引き続き中澤さんになった。
このコーナーは、世にいう「功成り名を遂げた」人を取材し、その人生を語って聞かせる物語風に書くもので、それなりの筆力が要求される。聞いてみると「余裕がないから、早くやってくれる」と言う。ストック原稿がないという意味だ。
糸川さんは、日本のロケット開発の先駆けになった知名度のある東大教授だったが、朝日新聞が糸川さんの男女問題や研究費の使い方などをネタに執拗なネガティブ・キャンペーンを展開したことがあった。これに嫌気をさした糸川さんが教授を辞任したことまでは知っていたが、それ以上、詳しくは分からない。早速、社の資料部で調べてみると、大変な人物であることが分かった。
ロケット研究からコンサルタント業へ転進
日本の「ロケットの父」とまで言われた人が、東大をやめると組織工学研究所を設立して、企業の技術開発のコンサルタントを始めて大成功していた。著書をいくつも出しており、その後に「逆転の発想」(プレジデント社、1974年)を上梓してベストセラーとなった。
筆者の関心は、朝日新聞が執拗に追い込んだ科学者の人生をなぜ、読売新聞が大きく取り上げるのか。誰の発案で糸川さんを取り上げることにしたのか、ということだった。中澤デスクのアイデアだろうなとは思ったが、ついに聞くことはなかった。

読売新聞日曜版(1971年12月12日付け)1ページ特集「わたしのドラマ」に掲載された糸川英夫さんの記事
明晰で当たりの柔らかい紳士
指定された六本木の事務所に出向いてあいさつすると、すぐに打ち解けた。人を包むような温かみと風格があり、語り口は無駄がなく分かりやすい。朝日の記事を読んできた印象とはひどく、かけ離れていた。品のいい秀才タイプである。
糸川さんは、1935年、東京帝国大学工学部航空学科を卒業して中島飛行機に入社し、帝国陸軍の九七式戦闘機、一式戦闘機・隼、二式単座戦闘機・鍾馗などの設計に関わった。戦後は、東大に迎えられてロケット開発を手掛け、ペンシルロケットからベビー、カッパ、ラムダ、ミューロケットへと段階的に大型ロケットへと成長させていった。
「私は10年ごとに研究目的を変えてきました」と言うように、生まれながらにして発想展開が豊かな人なのだ。ロケット開発も東大辞任と共に「捨てました」と言う。それでも今なお「日本のロケットの父」などと言われており、歴史に残る人物だったのだ。
「イトカワ」と「はやぶさ」物語
ここから先は、糸川さんが亡くなってから、興奮せずにいられない歴史が刻まれていくことを書き残したい。糸川さんが健在なら、どれほど喜んだろうかと思うことがしばしばあった。
1998年、長径500メートルのサツマイモのような形をした小惑星が発見され、糸川英夫の姓にちなんで 「Itokawa(イトカワ)」と命名され、国際的にこの名で呼ばれるようになる。
2003年5月9日、宇宙探査機「はやぶさ」は、このイトカワを目指して打ち上げられた。「はやぶさ」は、糸川さんが開発に関わった旧陸軍戦闘機「隼」から取ったものと言われている。
地球から60億Km(地球から太陽までの距離の約40倍)の彼方にあるイトカワまで2年5か月かけて「はやぶさ」は到着した。天体の表面に接近してロケット弾を撃ち込み、舞い上がった砂塵を採取し2010年6月13日に地球に持ち帰るという壮大なプロジェクトに成功した。
世界がかたずを飲んで注目
先端技術の粋を集めた宇宙探査だったが、何度もピンチに見舞われながらもこれを乗り越え、ついにイトカワの表面から微量な砂塵を採取して地球に持ち帰ったのだ。精密分析に数年かけて取り組み、砂塵の中にアミノ酸が含まれていることを発見し、宇宙天体にも生命の部品であるアミノ酸があることを実証して世界を驚かせた。
「はやぶさ」の帰路、絶望的なトラブルに何度か見舞われた。燃料漏れ、姿勢制御の不能、通信途絶、バッテリー異常、イオンエンジンの故障・・・。こうしたトラブルを奇跡的にクリアして地球に帰ってきたのだ。
筆者は、このときの報道をテレビで何度も見ながら感動を分かち合い、糸川さんのことを思い出していた。
インタビューの最後の言葉
糸川さんがなぜ朝日新聞の執拗なネガティブ・キャンペーンにあったのか。この一代記を書くために改めて調べてみた。大方の見方は、糸川さんがロケット開発を始めたころ、ミサイル開発など軍事利用と強く結びついており、「大学が軍事研究をしてよいのか」とする視点があったのではないか。糸川追い落としのネタとして女性問題と研究費流用問題を持ち出して批判記事を続けた・・・という論評がいくつか見られた。
糸川さんとのインタビューでは、朝日の記事については一切触れず、糸川さんの取り組む新しい研究開発とその動機・視点に発展して、魅力ある話に聞き入った。インタビューを終えて帰り際、次は何に転進するかと問いかけると「もう決まっていますが、言いません。言ったらみんなに笑わられるから」と何度も言った。
バレエに転進して帝劇でデビュー
最後の言葉が気になり、その後ずっと糸川さんの生き方を追跡していたが、間もなく貝谷八百子バレエ團に入団し、基礎からバレエのレッスンを受けていることを知った。そして1975年、貝谷バレエ團の公演「ロミオとジュリエット」で、モンタギュー伯爵役を演じ、帝国劇場でデビューを果たした。
1977年にも貝谷八百子バレエ團による、冨田勲の「惑星」のバレエ公演にも出演している。糸川さんは、ヴァイオリン製作や音楽に深い興味を示し、自身は創造性研究と語っていた。「人間は何歳からでも新しい能力を獲得できる」という考えを体現するため、60歳からバレエに取り組んだのである。
糸川さんは、豊かな自然を求めて長野県小県郡丸子町(生田地区)に移住した。1999年2月21日、丸子町の病院で多発性脳梗塞のため死去した。86歳だった。遺体は砂漠に埋葬された。
糸川さんの旧邸を改装した施設「じねんや糸川」が2025年に開設され、博士の資料などが展示されているという。


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