社内を明るくするオヤジさん
東京、青山にあった本田技研工業本社応接室で待っていると、やあやあというガラガラ声と共に本田宗一郎社長が入ってきた。「わたしのドラマ」のインタビュー取材である。どう見ても作業着風の服装であり、長椅子のソファに腰掛けると、片足を両手でつかんで太ももに乗せたり、ずり落ちた靴下をひっぱりあげたり。
カメラマンに向かって、このハゲ頭をとるのかいと、ぴしゃぴしゃと頭をたたく。とたんにこちらの緊張感がなくなった。
この日も車の機械装置をばらして、何かをやっていると社員から聞いていた。しかし本人は、「毎日、会社に遊びに来ているんだ」と言う。職場を回っているそうで、社長が入ってくるとばっと、周囲が明るくなる。だから社員は、本田さんを社長とは思っていない。みんな「おやじさん」と呼ぶ。

1972年3月5日付け読売新聞日曜版「わたしのドラマ」
丁稚小僧からのたたき上げ
本田さんは、浜松市の在の村の高等小学校を卒業して、すぐ丁稚奉公に出された。東京本郷にあった自動車修理工場である。修行後に独立してオートバイメーカーを立ち上げ、瞬く間に世界トップに上り詰めた。次は乗用車だと四輪車に進出して間もない時期の取材だった。
技術がいかに大事か。奉公時代の話には聞き入った。まだ見習いから出たばかりのころ、岩手県盛岡市の消防自動車の修理に行って来いと言われ、1人で行った。消防署の方は不満たらたら。こんな奉公人に本当に修理ができるのか。
「エンジンをばらして、掃除をして組み立てて直した。向こうはびっくりしていた」
このときの体験から、技術の大事さを知り、技術の習得に必死になった。
欧州旅行で世界を見て仰天
本田さんは、戦後まもなく軍の廃棄物の中にあったエンジンを使って、「バタバタ」(本田さんはこういう)を作った。原動機付き自転車である。これが飛ぶように売れた。オートバイに進化させ、これはもっと売れた。

ホンダの歴史を作った「ドリーム号」。量産二輪車として世界初の並列4気筒SOHCエンジンに、油圧式ディスクブレーキ・ダブルクレードルフレーム・4本のマフラーなど、新たなチャレンジの集大成として誕生した。出典:https://global.honda/jp/guide/history-digest/
世界一を目指して地球を駆け巡る
ヨーロッパはもっとすごいものを作っていると聞いて、本田さんはすぐさま行ってみた。そのころオートバイのホンダは、すでに日本のトップになっていた。
世界でトップと認められるのは、なんといってもイギリスのマン島のTT(ツーリスト・トロフィー)レースで、上位に行くことである。世界のオートバイメーカーがしのぎを削るレースを展開する。現場に行って度肝を抜かれた。
「オレんとこと同じ気筒量なのに、ドイツやイタリアのは馬力が3倍もある」
世界のオートバイ市場に進出するには、TTレースで上位に行かないとだめだと分かった。安ホテルに宿泊して費用を捻出し、欧州の自動車工場を回ってリム、キャブレター、チェーンなどを買いあさって帰国した。
「そうやって部品を真似するのですね」とうっかり言うと、本田さんの表情がみるみる険しくなった。
「マネするんじゃねえよ。それ以上のものを作るために買ってきたんだ!」。これには筆者も縮み上がって詫びを入れた。1961年6月、TTレースに3回目に出場したホンダは、125cc、250㏄で1位から5位まで独占して世界のオートバイ野郎をあっと言わせた。
イギリスの技術屋は「車をばらして納得した。ホンダは時計のように精密に作られていた」と脱帽した。
技術よりも思想が優先
「技術屋だから、なんでも技術優先と思っていたが実は違うんだ」と言った。欧米にオートバイを輸出する場合も、相手の国の国情や環境、歴史まで調べて最高の車を輸出すると語っていた。「コストをケチったり、日本の環境に合わせて作ればいずれボロが出る。いいものを作るには、技術より先に考えることがある」と言う。
本田さんが技術よりも優先するのが思想という哲学は、この体験から生まれたものだった。ホンダが、技術研究所を本体から切り離したのもこの思想から生まれた。
「研究は99%が失敗する。現場は100%生産オンリーだ。これを会社として両立させるのは無理だ」
生産現場の工場は、研究所から技術を買い、その見返りに売り上げの3%を戻してやる。こうして世界のホンダは成長を続けていった。

ホンダの基盤を作った2人の経営者。左が技術の本田さん、右が経営を担った藤沢武夫さん 出典:https://global.honda/jp/guide/history-digest/
帰り際、社長室を見たいと言ったら「そんなものはない」と言って役員室に案内された。役員全員が同じようなデスクで並び、本田さんの机はその中のひとつ。役員会には出ないという。社長の実印を「丸いのか三角なのか見たことない。使ったこともない」と言った。
「おれが何か思いついて発言すると、それで決まっちゃう。これじゃあ意味がない」。それで役員会にも出なくなった。後継者の話を出したらこう言った。
「会社と本田家は無関係。後継者は実力あるものがなる」
筆者が本田さんを取材した青山には、その後、瀟洒なビルが建った。今でも付近を通りかかると本田さんが作業衣で出てきた姿を思い出す。


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