<第37話>「わたしのドラマ」掲載預かり・中川善之助

記者馬場錬成一代記

  次は民法の大家・中川善之助

 「わたしのドラマ」は、功成り名を遂げた人の一生を1ページを使って書く企画ものだが、社会部の遊軍記者が主体になって、次々と有名人を登場させていった。

 筆者は中澤デスクの下命で、ロケットの父・糸川英夫さん、オートバイの覇者・本田宗一郎さんを書いたが、中澤デスクから「もう一本、書いてくれる?」と言われ、いつものように紙片を渡された。見た瞬間、驚いた。そこに金沢大学学長、中川善之助と書いてある。筆者の驚きの表情を読み取った中澤デスクが「何かまずいことでもありますか?」といつものように、さりげなく聞いてくる。

 中川先生は、東大法学部助教授から東北大法学部教授になり、定年後、金沢大学学長に迎えられていた。民法、とりわけ家族法の権威であり、戦後日本の家族法改革に極めて大きな影響を与えた民法学の大御所として知られていた。

 偶然知っていた中川先生

 筆者の驚きの源泉は、中川先生の法学者としてではなく、学生時代からこの大先生と顔見知りの縁があったからだ。予備校時代に筆者と友人となった三原一正さん(後に弁護士)が、東北大法学部卒で中川先生に傾倒し、その縁で筆者も何度か面談する機会があった。中川先生は、学生たちに慕われた親分肌の教授であり、学生たちは陰で親しみを込めて「中善」と呼んでいた。中川先生が定年で大学を去るとき、三原さんがリーダーになって記念植樹をすることになり、「中善並木」としてキャンパス内に植樹をした。「若き日の友情と感激のために」と中川先生の揮ごうした記念碑を建て、その記念式典と懇親会に筆者も参加した。こんなことで中川先生とは面識があった。中川先生は筆者のことを東北大法学部の同窓と、勘違いしていた可能性が高い。

 東北大学のキャンパス内にある「若き日の友情と感激のために」と書かれた記念碑(左)と中善並木

 学長室で聞いた民法学の真髄

 梅雨明けの夏本番を迎えた暑い時季、金沢大学学長室で取材した中川先生は、陽に焼けた健康そうな表情で、家族法に取り組んだ日々を語った。戦前の家制度を廃止し、個人尊重と男女平等、子どもの権利を重視する戦後家族法へ転換する中心的役割を果たした。法律学は「調べ物の学問」というようなことを言った。「1時間でも長く机に座っているものが勝つ」とも語った。

「実際の家族や地域共同体は、どのように動いているか」が大事だという。そのために、農村や地域の慣習や歴史の研究も行い、民俗学や社会学にも広く視点を広げた研究をした。単なる条文解釈ではなく、「法は生活から生まれる」ということを語った。

 掲載直前に降ってわいた予期しない出来事

 書きたいことが山ほどある内容だったが、帰ってすぐにドラマの原稿を仕上げた。「日本の民法学の双璧は東大の我妻栄と東北大の中川善之助」と言われており、この原稿のために我妻先生からコメントをもらうと、中川先生を褒めたたえる言葉があふれており感動した。写真部のカメラマンも東京から同行したので、いい写真を多数撮り、どれを使うか楽しみながら選んだ。中澤デスクに提稿すると「すぐに掲載しよう」と、掲載時期を早めにするような口ぶりだった。ところが、その直後に予期しない出来事が勃発した。

 1972年8月9日、名古屋高裁金沢支部でイタイイタイ病の二審判決の言い渡しがあり、控訴審でも一審を支持する原告側の勝訴となった。神岡鉱山(三井金属鉱業)から排出されたカドミウムがイタイイタイ病の原因であると認定し、 企業側に無過失責任(故意や過失がなくても損害賠償責任を負うこと)に近い、厳しい賠償責任が課された公害裁判判決だった。

 学生たちに慕われた中川善之助先生。

 真意を理解しないメディアの批判

 この判決を受けて、中川先生が地元メディアからコメントを求められ、「企業を絶対悪として糾弾するだけでは、社会全体の解決にならない」という趣旨の発言をしたため、これが企業寄りの考えとして指弾され、新聞、テレビ、週刊誌などで一斉に報道された。

 驚いた筆者は、すぐに中川先生に電話を掛けた。その時の先生の話は大体、次のような内容だった。

 「判決そのものに反対したものではない。被害者救済は必要であり、公害企業の責任も重大だ。感情的に企業をたたくだけでは解決策にならない」

 さらに日本は三審制だから、最高裁まで持ち込まれると、どのような判断になるか分からないという冷静な法理論の話をしたところ、これを企業側擁護と受け止められたようだ。結果は被告が上告を断念して企業側が敗訴した。

 掲載先延ばしからボツへ

 当時のマスコミ報道姿勢は、被害者救済という「正義」を前面に出し、社会運動にまで発展していた。中川先生の発言は、法律家として社会の実態と制度全体を見ることが大事であり、感情だけで法を動かさないという学者の立場で語ったもので、企業側にくみした考えはなかった。

 中澤デスクもこれには困ってしまい「ほとぼりが冷めるまで掲載は伸ばそう」と言い筆者も賛同した。しかし預かりとなった原稿は結局、日の目を見ることはなく、ボツとなった。掲載を待ちかねていた三原弁護士には、原稿のコピーを手渡した。その写しは中川先生の手元まで行ったと思うがそこは分からない。いずれゲラになると思っていた筆者の手元には、結局、原稿のコピーも残らなかった。

 その後、三原弁護士が主宰する「清談会」という時局懇談会に、筆者は事務総長と言う肩書で引き込まれ、定期的に有識者らを招く勉強会を続けた。これが後々、筆者が主宰する特定非営利活動法人21世紀構想研究会の原型となった。

 遊軍から事件記者の王道へ転進

 筆者は、このあと通常の遊軍の仕事に入り、公害事件や自動車の消費者運動などの社会運動や国会追求の報道に駆り出された。そして間もなく、思いもしなかった担当替えを部長から言われた。警視庁記者クラブ担当となったのである。サツ回りで3億円事件を担当したときに、警視庁クラブの先輩記者たちの俊敏な働きぶりを憧れの気持ちで身近に見ていたが、その先輩の一人からクラブに引っ張られたことが後で分かった。

 中澤デスクに内部異動を報告に行くと「いいとこに行くねえ。社会部はやっぱり警視庁クラブが王道だよ」と言ってくれた。

 「わたしのドラマ」は、社会部の遊軍記者が交代で執筆していたが、ベテラン記者が多かった。その中でもまれて取材・執筆活動ができたことは、本当に幸運だった。こうしてわが身は、事件記者として後戻りする方向へ転進することになる。

写真の出典:東北大学関係写真データベースなどから

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