警視庁クラブとは何か
社会部は当時、100人内外の部員を抱える、編集局最大の部署であった。主として社会面を担当するが、大きな事件・事故などは一面から大扱いになるし、行政官庁の政策・施策や不祥事なども一面から掲載し、それを受けて社会面でも扱うことが多い。
当時の新聞は、反国家権力、社会の木鐸という意識が強く、特に「社会部の読売」と言われるほどで、社内でも社会部は一大勢力として存在感が抜き出ていた。
「紙面が生きるのも死ぬのも社会部次第」と言う先輩記者らの話を、何度も聞かされていた。中でも警視庁記者クラブは、花形事件記者の集まりと言う雰囲気があった。だからその担当になったことは、名誉でもあった。

往時の警視庁旧庁舎(写真をもとにAIが画像化) 玄関部分の六階頭頂部に巨大な円筒形の塔屋をのせ、重厚なつくりをした建造物は眼下を睥睨しているように見えた。対面する皇居を望遠しながら、帝都東京の警備を守る象徴として1931(昭和6)年に竣工したもので威容を誇る建物であった。現在の警視庁庁舎は建て直して1980年に完成したものだ。写真はいずれ掲出する。
「七社会」が火花を散らす激戦場
皇居・桜田門を眼前にした赤いレンガ造りの旧警視庁庁舎に初めて登庁し、2階の記者クラブ「七社会」という看板のかかった部屋へ行った。七社会とは、主要7社が戦前に作ったクラブの名残であり、戦後も名前だけは残っていた。このほかに警視庁記者クラブ、ニュース記者会などいくつかの業種に別れた記者クラブがあり、いずれも2階の一角を占めていた。
中でも七社会(現在は6社)の朝日・毎日・読売・共同・日経・東京新聞の取材競争が激越であり、日夜特ダネを狙って激しく火花を散らしていた。仮眠ベッドにデスクと椅子が並ぶ細長い10畳間ほどの部屋で、カーテンで仕切って外から中が見えないように6社の部屋が並んでいた。

事件が発生するといち早く現場に急行するため、常時、社旗を付けた各社の車が警視庁庁舎を取り囲むように駐車していた。これは駐車違反だと問題にされたこともあった。この画像はAIが当時の写真などを参考に各社の社旗が分かるようにデザインを考えて作った。朝日と毎日の社旗が1台の車に出ているのが気になるが、ま、AIのご愛嬌としたい。
2課・4課を回ってきたら・・・
部屋に入って間もなく、キャップが出勤してきた。挨拶すると「君には2課を担当してもらう」と言われた。警視庁の業務分掌では、捜査1課はコロシ・タタキ(強盗)専門の部署、2課は詐欺、横領など知能犯、3課は窃盗、4課は組織暴力団という職務になっていた。各社記者クラブでは、1課担当は1課と3課を、2課担当は2課と4課をカバーすることになっていた。このほかに公安担当、交通・防犯担当があり、キャップ・サブキャップを含めた11人態勢だった。
2課担当には、辣腕記者として知られていたY記者をリーダーに3人が担当しており、先輩が一人抜けてその後に筆者が入った。3人で2課・4課の事件を担当することになる。知能犯は、発生モノと違って、深く潜っている社会悪をタレコミ(内部情報)や警察の内定捜査であぶり出していく。だから夜回り取材が最大の武器であった。
Y記者に連れられて、2課・4課の課長や管理官など警視庁幹部に挨拶回りに行った。名刺交換をして「よろしく」と挨拶して雑談を交わす。一通り回って部屋に戻ってくるとキャップが待ち構えていた。
「馬場君は、交通・防犯担当にする。2課・4課は2人態勢だ」という。2課・4課と交通・防犯、公安担当がそれぞれ2人態勢となり、1課だけが3人となる。警視庁クラブ始まって以来、新たな体勢だが、キャップの話から、この体勢は牧野拓司・社会部長の下命でそうなったことが分かった。クラブの全員が仰天した。部長は、これからは警察も行政施策の時代だから、交通・防犯を強化したいという思惑だったようだ。しかし、これはピタリと当たった。
交通は取締り・規制部署ではない
改めて先輩のK記者に連れられて、防犯部と交通部の幹部に挨拶回りをした。交通規制課長は畔柳第一課長になっておりびっくりした。3億円事件で捜査が停滞しているとき、焦った捜査本部が別件逮捕(第6話で報告)した事件があった。
その時、畔柳課長は、警視庁空港署長であり、誤認逮捕された会社員のアリバイ情報のタレコミを手際よく処理して、警視庁の傷口を最小に抑えた。「第一」という変わったお名前だからよく覚えていた。もともと捜査1課、鑑識課の課長補佐を務めた方で、第一線の捜査勘を持っていたから迅速な対応ができたのだ。その畔柳さんが交通部規制課長に昇格していた。その縁もあって「都心3区全面駐車禁止」という世の中を騒がす特ダネを示唆されたこともあった。
警視庁交通部は、取締り部署から交通行政へと大きく舵を切り始めていた。牧野社会部長が「これからの警察は、犯罪捜査から行政施策官庁へ舵を切る時代を迎えている」と語り、警視庁クラブの交通防犯を1人から2人にすると語ったと聞いているが、あまりに出来過ぎた話であり、いまだに真偽は不明だ。
交通死亡事故も減少の一途へ
ともかくも筆者が交通・防犯担当になったあと、話題になる事件が次々と発生していく。これは偶然だったのか、世の中が変転としていった結果なのか分からないが、筆者は後者のような気がしてならない。交通警察は、取締り一辺倒から行政指導や各種の規制行政へと舵を切り、交通死亡事故も減少を迎え、シートベルト装着が固定化へと向かうことにつながった。防犯部は、高度経済成長と共に勃発した公害関係の事件を手掛け、公営ギャンブルの八百長事件が頻発したこともあって、夜回り取材で多忙の日々だった。
下の表は、年代別の「全国の年間交通事故死亡者」を調べたものである。筆者が警視庁クラブにいたころは、毎年1万人をはるかに超える交通事故死者が発生していた。24時間死者とあるのは、事故発生から24時間以内に死亡したという意味で、それを超えて死亡しても交通事故死亡者数には入れない。この統計の取り方を問題視する人もいたが、改定されなかった。今でもそうなのだろう。

今は年間2,500人まで減少した。といっても毎日、全国のどこかで7人弱の交通死亡者が出ている。ともあれ信じられない減少だ。あれから50年も経てば、救急医療も事故対策も進歩するので、このくらい変わるのが当たり前のように思われるかもしれない。筆者は交通行政の進展ぶりを各種ニュースを見ながらずっとフォローしていたので、この進化を肌で感じていた。免許証の書き換えに行っても、この50年でずいぶん改善されていった。新聞記者だからそういう場面に遭遇して、気が付いたのだろうと思うこともあった。


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