<第42話>東京で勃発した公害問題

記者馬場錬成一代記

 日本の4大公害病とはなにか

 今となっては歴史に残る公害病となっているが、1960年代から始まった高度経済成長期のツケが、相次ぐ公害勃発となって日本列島を襲い掛かった。中でも忘れられないのが4大公害病である。

 下の表で見るように熊本・新潟・富山・三重県といずれも大都会から離れた地域で発生したものであり、東京に住んでいた筆者らは正直、無縁なことのように思っていた。

 東京にも発生した都市型公害

 公害とは無縁だと思っていた東京人に襲い掛かったのが、光化学スモッグである。1970年の夏だった。筆者はこのときサツ回りだったので、管轄外であり直接かかわりはなかったが、社会部遊軍席で関係取材や執筆をした記憶がある。杉並区の高校生が、部活の最中に校庭で異常を訴えてバタバタと倒れた。最初、サツ回り記者から「毒ガスの発生」と入ってきたので、社内が騒然となって、事件の取材に手分けして取り組んだ。

 毒ガスとは、後になたって自動車の排気ガスに含まれる成分が、太陽光の紫外線を受けて化学反応を起こし、有害な光化学オキシダントを発生させて大気を汚染するもので、日差しが強く気温が高く、風のない日に発生することが分かった。大気中が白いモヤがかかったような状態になり、眼やノドに強い刺激を与えるのが特徴だった。自動車の排気ガス規制が強くなったのは、この公害のお陰である。

 光化学スモッグ公害を皮切りに、東京でも次々と公害が発生した。筆者は下の表の後半の事件を取材した。

 東京都と警視庁の相乗り摘発

 刑事事件として世間を騒がせたのは、メッキ工場から排出される有害物質である。

 車社会が急拡大し、家電などの電気製品が普及するにしたがって、下請け工場は部品製造に日夜追いまくられていた。睡眠時間を削って懸命に働く日本人の姿を見てきたが、この時代の日本人が最も苦労して労働に駆り出されたのではないか。工場の従業員だけでなく、一般のサラリーマンも同じように、営業や販売に追いまくられていた。猛烈に働くので「モーレツ社員」とも言われ、残業後には酒場をはしごして夜中に帰宅。翌朝早くからまた働く。こんな働きぶりを風刺した植木等の「スーダラ節」が一世を風靡した。

 キャップが言った「やりてえことをやるのが一流だ」

 警視庁記者クラブ担当のときは、日夜、事件の内偵捜査の取材に追われており、全く余裕がなかった。昼は定例記者会見があるし、夕刊時間帯は、なにが発生するか分からないから、庁内を回るだけで終わってしまう。ランチをして一息ついた夕方から独自取材に取り掛かる。夜は、夜回りに出て締め切り間際に、新宿か都心部のスナックなどに集まって、その日の夜回りの成果を同僚の記者と交換する。

 そのころ携帯電話はなかったので、連絡方法はもっぱらポケットベルだった。これを鳴らせば、かねて約束していた先に電話して連絡ができる。沖縄返還交渉が大詰めを迎えていたころだった。特別委員会か本会議で議案通過かどうか、緊迫していたころである。国会に取材に入りたいと思ったことがある。沖縄に興味を持ったのは、中澤デスクの影響であった。

 サツ周りや遊軍をしているころ、ベテランの遊軍記者に依頼されてよく、国会に取材で入ったことがあった。今回のテーマの公害問題、薬害のスモン問題、自動車の消費者運動などで国会で度々、問題が出て紛糾し、その関連取材で行かされたことがあった。国会に入るための記者バッチを持っていたので、いつでも入れる。

 あるとき同僚記者が誰もいないことを確かめ、クラブのキャップに「国会にちょっとだけ取材に入りたい」というようなことを言った。するとキャップは「なに!国会!」と言ったあとに「バカもん、おれにな、そんなことを言ったら反対するにきまってるだろ、このバカモンが」と言った。それから一息おいて「新聞記者はな、やりてえことをなんでもやっちまうのが一流なんだ」と言って、ニヤリと表情を緩めた。

 結局、このときの取材はいかなかったが、キャップの温情が嬉しかったことを今でも思い出す。キャップは、慶応義塾大学の応援部OBの杉田幸雄さんだった。応援部らしく、大声でメリハリある言葉を発し「ばかもん」が口癖だった。国会に取材に行きたければ、俺に内緒で行ってこいと言いたかったのだ。

 

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