<第44話>社会部から北海道支社へ異動

記者馬場錬成一代記

 突然現れた北海道支社編集部長

 社会部配属になってから4年10ヶ月後の1973年3月1日、筆者は北海道支社編集部へ異動となった。話は突然きた。1972年の暮れも押し詰まった12月20日過ぎだった。社会部次長から北海道支社編集部長に昇格していった田中秀男さんが、ひょっこり警視庁記者クラブの読売新聞ブースに顔を出した。

 「そこまできたから、寄ってみただけだよ。警視庁クラブはきたことがなかったからね」と言いながら数人いたクラブ員らと雑談をした。杉田キャップはたまたま不在だった。田中さんは筆者の隣りに座ってきた。頃合いを見て私の方に小さな声で「ちょっと外でお茶しないか」と誘ってきた。

 田中さんとは社会部デスク時代からよく知っている間柄だった。いつか何かのネタを「これ面白そうだから取材してみたら」とか言いながら、メモを渡された。すぐに取材して掲載された。そんなことが数回続いていたが、間もなく田中さんは札幌の北海道支社へ昇格していなくなった。社会部時代は、それだけの縁だった。

 私事の依頼ごとかと思ったら・・

 警視庁のクラブを出た田中さんと筆者は、新橋界隈の喫茶店に入った。何か私的な用件を依頼するために、筆者を連れ出したと思っていた。雑談しているうち田中さんはやおら「札幌に来ないか」と言った。最初は、旅行で来ないかと誘っているのかと思った。聞いてみれば、転勤の話である。北海道支社は規模もそこそこで並みの支局とは違う。どうせ一度は支局に出される身なら札幌は悪くない。筆者に取って北海道は、未知の土地もである。快諾の返事を出した。あとで聞いた話だが、田中さんは周囲に「あいつは仕事が早い」と評していたという。眼をつけられていたのである。

 田中さんから「辞令は来年の3月1日付けだよ。それまでは内緒だからな」と念を押されて別れた。クラブに戻ってくると、同僚記者たちが「秀さん(田中さんのことをこう呼んでいた)に何を言われたんだ」とニタニタしている。「人さらいに、きたんだろう」という人もいる。「人さらい」とか「人狩り」という言葉があった。転勤を持ちかけてくるのをそう言っていた。筆者は何も言えずニヤニヤしてごまかした。

 口止めされているが、杉田幸雄キャップには言わないわけに行かない。2人だけになったときに異動話を言うと「そういう話は、ちょっと考えさせてくれと返事をするのが筋だ。その場でOKするのは、バナナのたたき売りだ」と言った。意味不明だが、そういう言い方があるのかと感心した。しかし、いまさらひっくり返す話ではない。こうして札幌にある北海道支社編集部に異動することになった。

 春の吹雪の北海道に第一歩

 辞令日の3月1日に、羽田空港から同僚記者らの見送りを受けて赴任した。千歳空港に滑りこんでいった機上の窓から見た景色は、どこもかしこも真っ白である。外に出ると風雪が勢いよく舞い散る吹雪である。出迎えにきてくれた千歳通信部の記者が「お祝い吹雪ですから縁起がいいです」と笑顔で言う。初めて踏んだ北海道の初日から、筆者は「歓迎」されていることを知ったが、それから5年9ヶ月、北海道での記者活動は、間違いなく充実した活動歴で埋められていった。

  入社前から始まった記者活動

 筆者が入社したのは1965年4月1日である。配属は社長直属の総合科学技術委員会事務局だった。事務局長は、後に社会部長から編集総務まで務め、数々の実績を残した辻本芳雄さんだった。辻本さんは、アルバイトで勤務しているうち認められて社会部記者となり、「ついに太陽をとらえた」、「人間この不可思議なもの」、「昭和史の天皇」などを企画立案、執筆して名記者と言われた人である。筆者は、辻本さんの命を受けて「人間この不可思議なもの」を担当したことは前にも書いた。

 その辻本さんには、入社する半年前から私は呼び出され、「バイト待遇」で文部省統計数理研究所に派遣された縁があった。衆議院選挙の全国400選挙区以上の世論調査と実際の投票実績を数学的に処理し、選挙の事前予想の確度をあげる数値計算を青山博士の指導で行った。ひたすら手動のタイガー計算機で、半年がかりで計算したものであり、今ならコンピュータで数秒以内に出すような作業だった。

 それが認められ、辻本さんの自宅にもよく訪問することになり、新聞記者のたたずまいを、体験談を交えて実に楽しく学習する機会があった。「君は地方へ出さないで、本社で教育する」と何度か言われ、本人は程なく社会部長に昇格し、後任は社会部次長から「週刊読売」編集長になったばかりの山崎英祐さんがきた。

 入社後の筆者は、新聞の自動編集を目指せという正力松太郎社主の意向を受けたものか、日立製作所の社員と一緒に、箱組と呼ばれる編集をコンピュータで自動的に行うプログラム作成の一員になり、毎日、日立製作所のビルに通った。大学でコンピュータを学んだことから指名されたようだ。プログラムをくみ上げると次は、新聞編集を学ぶために4ヶ月ほど地方版の整理記者をやり、一か月後には紙面を1人で組むまでになった。その後、社会部に異動したが、自動編集の話はいつの間にか立ち消えとなった。形を変えて実現するまで、あれから30年以上かかっている。

 激動の社会部時代を駆け抜ける

 社会部にいたのは5年足らずだが、間違いなくこの期間に新聞記者としての基礎をきちんと鍛え上げられたと確信する。実に充実した時間だった。

 過激派学生運動の最盛期の時代であり、毎日のように大学構内や街頭で暴れ回る学生たちの取材に追われていた。間もなくサツ回り(警察担当)になり、初日に3億円事件に遭遇し、日夜、激越な取材競争のまっただ中で活動した。このときに身につけた体験は、今なお筆者の財産として身体の随までしみこんでいる。

 そして年間企画「人間この不可思議なもの」の担当になり、中沢道明デスクの薫陶を受け、先端科学研究の取材方法と原稿の書き方の指導を受けた。この担当になれたのは、推測だが辻本さんから中沢デスクに推薦があったからだろうか。中沢デスクとは、サツ回り時代に高校紛争の連載企画で一緒に仕事をした縁もあったので、格は違うがコンビを組んで楽しく仕事ができた。

 大脳生理学と生命科学の最先端研究現場を取材して、日夜、勉強の日々に追われた。あんなに勉強したことは、これまでの人生でなかった。最先端の研究者の話を聞き出して、一般読者向けに原稿を書く力量は、中沢デスクからたたき込まれたことであり一生の財産となった。

 そして社会部の最後は警視庁記者クラブの夜回り取材で、激越な競争に勝ち抜く体験をたたき込まれた。交通行政という新しい警察のあり方を身近に知り、取材競争を勝ち抜いて次々と独自題材で報道する機会に恵まれた。そのとき最も世話になった人が後年、警視監になった津田武徳交通部長であり、警視総監にまで上り詰めた大堀大刀夫・交通部参事官だった。

 この2人には、北海道支社に異動した後も、世話になった。その話は後で書く。

  社会部最後の黄金時代

 今思うに、往時の読売新聞社会部は、社内で最も輝いていた部署であり、社会部黄金時代の最後の場面だったように思う。編集局内の力関係は、徐々に別のベクトルが働いて政治部に移っていったが、それは時代の趨勢であり妥当なことだったと思う。

 社会部時代は、一番若い遊軍記者を勤めていたので、周囲は先輩ばかりだった。しかしどの先輩もよく面倒を見てくれ、原稿を書けば感想を語ってくれた。それは成長過程にある新米記者の活動エネルギー源になった。多くの方が鬼籍に入ったが、いまこの年齢になってその有り難さをしみじみ実感することがある。

 このような若い時代の一代記は、今まで誰にも語ることはなかった。理由は、単にそのような機会がなかったからである。いま、こうした思い出と感慨が次々とあふれ出しそれを書いていることは、筆者にとっては嬉しい出来事となった。

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