21世紀構想研究会・学術アドバイザー・利根川進先生が逝去

時事評論

記憶の機序の解明にも画期的業績を残す

抗原・抗体反応の原理を遺伝子で証明してノーベル賞

 1987年に日本人として初のノーベル生理学・医学賞を受賞した米マサチューセッツ工科大(MIT)教授の利根川進先生が、7月11日に亡くなった。先生のノーベル賞業績は、多様な抗体をつくる人体の仕組みは、遺伝子組み換えで行っていることを多くの実証実験で確立したもので、ノーベル賞を単独で受賞した。

 ノーベル生理学・医学賞選考委員会事務局長をしていたヤン・リンドステン・カロリンスカ研究所教授が1989年に来日したとき、「トネガワは、受賞者3人分の業績だったので、当分、日本からノーベル賞は出ないだろう」と冗談めかして語っていた。それほど価値があるという言い方だった。

 謎解きの端緒となった実証実験の結果

 人間の体内に外部から細菌やウイルス、化学物質などが入ってくると、これが生命現象に悪さをして病気になることは知られていた。しかしこの悪者が入ってくると、なぜ人体は間髪入れずに抗体を作ることが出来るのか。細菌・ウイルスは、どんどん姿を変えるが、変異株ができても次々と抗体を作っていく。これは医学界の最大の課題として長い間横たわっていた。数万しかない抗体遺伝子から、なぜ100億種類以上と言われる抗体が作られるのか。当時の医学界の大きな謎だった。

そのなぞ解きの端緒をつかんだ実験結果が出たときのことを、利根川先生から聞いたことがあった。1976年2月の日曜日の寒い日だった。前夜から、遺伝子組み換えを実証する自動実験装置をセットして、一晩かけて記録させていた。その記録用紙の結果を見るために、バーゼルの免疫研究所に早朝に出勤した。記録紙を見た瞬間、仰天した。抗体遺伝子は、遺伝子を組み換えで作成している証拠をつかんだと思ったという。

マウスの遺伝子を使った実験結果だった。母親マウスから遺伝子を引き継いだ胎児マウスは、まだ抗体を産生していないから、親から受け継いだ遺伝子そのものを持っている。ところが、がんにり患したマウスの遺伝子は、親とは違う遺伝子を次々と変えて作っていた。動かないと思われていた遺伝子が、勝手に動いている。これが遺伝子組み換えだった。

それまで遺伝子は変化しないと考えられていたが、免疫細胞では抗体遺伝子が組み変わることを、次々と実証実験を蓄積して固めていった。それからは、他の研究者を寄せ付けず「2年間、独走状態で証明し、単独受賞となった」(利根川先生の受賞を記者団に発表したリンドステン教授の言葉)。

 構想研のアドバイザーになったきっかけ

 利根川先生と筆者が知り合ったのは、読売新聞が1988年に「ノーベル賞受賞者日本フォーラム」を開催し、内外のノーベル賞受賞者を日本に集めてシンポジウムを行ったときだ。このフォーラムは今も形を変えながら継続している。

 フォーラムの核心部分に、江崎玲於奈、福井謙一先生(いずれもノーベル賞受賞者)と並んで利根川先生にも入ってもらった。そのときから、利根川先生と親交を重ねる縁ができ、MITから帰国した際には、個人的な用件などで協力することにつながった。1997年に21世紀構想研究会を作った際に、利根川先生にもお願いして学術アドバイザーになってもらった。

2000年5月24日の第21回・21世紀構想研究会では、利根川先生と加藤紘一元自民党幹事長の2人が講演・討論した。

 この日は「21世紀の政治・経済・科学技術」(加藤先生)、「日米研究体制の違い」(利根川先生)で講演・討論したが、質疑でも数々の課題提起で盛り上がり、活気ある研究会だった。

この2人は、都立日比谷高校の同級生であり、非常に親しかった。2人が談笑する場に居合わせることが何度かあったが、2人は日本の研究現場を強化することで忌憚のない意見を出し合い、討論していた。加藤先生は政治家としては抜群の科学的知識を持っていた。元々は理系進学が希望だったが、予備校時代に東大文1に変更した。話をしながら、日本では理系・文系に進学先をより分けていく教育現場の理不尽さにも話題は広がっていた。

 そんなとき利根川先生は、「サイエンスでは、自分自身が研究成果をコンヴィンス(convince、確信させる)することが一番大事だ」と語っていた。文系も同じだろうと言いたかったのかもしれない。

 二人の討論が発展し、「ポスドク1万人計画」が、政策課題として浮かび上がり、加藤先生が主導して法制化した。博士取得後(ポスドク=ポスト・ドクトラル)の研究者の独立制をアメリカ並みにすることだったが、大学内の体勢と制度が全くついていかず、数こそ1万人は超えたが実効性はなく、アメリカ流の研究現場は、実現しなかった。

 脳研究でも画期的実績を残す 

 利根川先生はノーベル賞受賞後、脳研究にテーマを移し、MITでは特にエングラム(記憶細胞群)の研究に取り組んだ。ドイツの進化生物学者リヒャルト・ゼーモンが、1900年代初頭に、「記憶は痕跡として残る」と考え、これをエングラム(engram)と名付けた。しかし当時は記憶の場所を特定できず研究は停滞した。

 2010年代になり、利根川先生らはエングラムの概念を実験的に示すことに成功し、脳と記憶の研究を大きく進展させた。マウスを用いて恐怖記憶の実験を行い、恐怖体験の際、多数の神経細胞の中で一部の特定の神経細胞群が活動することを遺伝子レベルで確認した。またその遺伝子を発現させると、その場で実際に恐怖体験をしなくても、恐怖記憶がよみがえることを実証した。

 記憶は脳に保存されている可能性が高く、遺伝子を刺激することで再び呼び起こすことができることが示された画期的な業績であった。二度目のノーベル賞受賞にぐんと近づいたと筆者は期待していた。この研究が将来発展した時、利根川先生のエングラムの概念を実験的に実証した業績は、脚光を浴びるだろう。

 ノーベル賞受賞者の中でもトップクラスの業績

 本研究会の会員である東中川徹・早稲田大学名誉教授は、発生学の権威であり、今でも生命科学の教科書を次々と刊行して研究者育成にも尽力している。その東中川先生も都立日比谷高校で利根川先生とクラスは同じときがあり、加藤先生とは「平和懇談会」というクラブ活動で、一緒だったという。

 利根川先生の思い出を聞いたところ、「彼は気が強い感じでした。進学の話になったとき、おれは絶対に京大に行くと言い張っていました。なぜ京大かは覚えていませんが」と語っている。

 東中川教授とノーベル賞について筆者が話をしたとき、利根川先生の業績は「歴代のノーベル賞受賞者の中でもトップクラスの価値ある業績だった」と称えていた。遺伝子DNAの構造解析をし、分子生物学の基礎を作ったワトソン・クリックは別格としても、その遺産を引き継いだ業績では、利根川先生の仕事はダントツだろうと筆者も確信していた。偉大な先生を亡くした。

以上

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