<第46話>伊達火電・建設反対運動に取り組む(下) 住民運動から革新勢の運動に変革

記者馬場錬成一代記

 

 

 東京の情報から北海道にジャンプした取材原

 警視庁記者クラブ時代の人脈から、北海道の公務員のある方を紹介された。転勤から一か月ほどたったころ、所用で上京し、すぐ引き返したわずかな時間を工面して警視庁に寄り、記者クラブには寄らずに世話になった警視庁幹部を訪問して近況を報告した。

 その際に伊達火電反対の住民運動の取材に追われていることを話すと、「彼に聞いたら役立つ情報があるかも知れません」と言って、ある人物を紹介された。全国の幹部級公務員の研修で一緒になった方だという。間もなくOKの連絡が来て、札幌の自宅に来てほしいと住所を伝えてきた。

 伊達火電反対運動に夜回りを始める

 火電反対運動の取材で夜回りするとは、考えてもいなかった。中堅幹部の自宅を訪問すると、大変、気さくな方で「まず、北海道の銘酒を一献」ということで、軽く飲み会から始まった。それからは、北海道人の文化、政治風土、自然環境、食の文化などの話題に広がり、日を置かずに夜回りすることになった。筆者が伊達の漁師から直接買い込んだ殻付きホタテやウニ、農家から買った野菜類を手土産にしては、軽い飲み会となった。

 ある日一枚の紙を見せられた。伊達火電建設着工スケジュールと言う見出しで、日程が細かく書いてある。

 着工阻止行動、着工前盛り上げ日、着工・・・などが日付順に並び、支援団体として労働組合の名前と人数が書いてある。説明を受けるまで文書の意味が分からなかったが、それは火電着工までの北電側の作業スケジュールだった。ただし、北電が独自に決めたものではなく、当然、道をはじめ関係行政官庁と一体になって調整して決めたスケジュール表だった。

 着工行動から前面に出てきた革新勢力

 予定地の整備から着工が始まるが、それを阻止するために、反対する農民と漁民が交代で建設予定地前に座り込みを始めた。そこに支援団体の各種労働組合員も加わり、日増しに増えていった。着工するには、座り込みを排除して、工事のトラックを入れて測量や整地から始めることになる。座り込みの前には、街宣車が止まり、反対する演説が絶え間なく続くようになる。

 着工する作業員を乗せたトラックが数台、数珠つなぎになって工事予定地に近づくが、座り込み阻止にあって進めない。工事側と座り込み側の代表が路上で「通せ」、「通せない」の押し問答をするが、20分もすると工事側があきらめて引き返していく。これを筆者らメディアは「着工行動」という名前を付けて報道していた。こんなことがいつまで続くのか。ある日、その解答を書いた文書を見せられ仰天した。

 革新運動に転換した火電反対運動

 火電反対と公害阻止運動。反対住民と北電の対立。そういう構図で反対運動を取材し、予定地に座り込みで頑張る住民たちを見て報道していたことが、見せられた文書で一変した。これは「当局対革新の政治闘争」の一面なのだ。後で振り返ってみると、なんでこんな簡単な構図を読み取れなかったのかと思ったが、社会経験がまだ貧困な筆者には、そこまで視点を広げてみる力量がなかった。

 全道労協を知る

 取材方法を変えた。火電建設で危惧される公害の発生とその対策、地域住民への補償制度の内容などの報道姿勢から、革新運動、単純な言い方をすると社会党と共産党を軸とする革新勢の戦略内容に視点を移したのである。国政選挙まで見通した運動の基本行動は何か。金に余裕がある単組はどこか。座り込み動員は、日当を出すのでカネがなければ続かない。

 当時、社会党の最後の黄金期であり、とりわけ北海道は社会党が強い地盤になっていた。1950年(昭和25年)11月に結成された全道労協(全北海道労働組合協議会)は、戦後北海道の労働運動を主導した、歴史的な労働組合の連合組織だった。この組織の幹部は、次々と衆参選挙の候補者になり、国会議員に出世していく。現実の取材の中でこの組織と北海道の政治勢力、革新運動の実態を知ることで、革新陣営を見る眼がはっきりと変わった。

 直ぐに図書館に行って調べたところ、中心勢力は国労、自治労、日教組、全逓、道炭労(日本炭鉱労働組合)などの官公労働者・大規模産業別組合が中心になっていた。活動は、冬の季節の賃上げ闘争や政治・社会運動(安保闘争、沖縄返還闘争や革新道政・市政の支援)を強力に牽引する労働団体である。

 伊達火電反対陣営は労働組合主導

 夜回り先から提供された資料を見ると、火電予定地で着工に反対して座り込んでいる人たちは、全道労協の主軸にある自治労、北教組、国労、炭労など道内の大単組が動員をかけており、毎日、道内各地から単組を代表する組合員が現地に集まってくる。着工しようと作業員らを乗せたトラックを阻止して引き返させる。反対運動の演説を絶え間なく展開する。

 こんなことがいつまで続くのだろうか。「じき、終わりますよ。日程は決まっています」と夜回り先で見せられたスケジュール表では、動員する単組の人数まで書かれた詳細なもので、驚くよりなかった。「単組側の本音は、早く強行着工をやってくれ。でないと資金が続かない」という解説を聞いたが、これは東京を拠点とする全国の革新運動も、同じような利害関係で動いていることを知った。各地で展開されていた当局と革新運動の動きは、事前にシナリオを作った「劇場」だったのだ。

1973年6月14日付け読売新聞全国版の夕刊社会面記事。

 強行着工でケリをつける

 1973年6月14日、伊達火電着工に反対する労組員と地域住民の座り込み300人が、道警本部の機動隊にゴボウ抜きにされ、着工するトラックが次々と予定地に入って作業を開始した。この日まで数回にわたって「今日、強行着工か」などの情報が流れたが、これは革新側がメディアを介して流した情報であり、反対運動を盛り上げるためのものだった。

 その日筆者は、現場に早朝から張り付いて取材した。ただ、現場で起きるハプニング的な現象以外、書きようがなかった。反対派が座り込みをして着工を阻止するが、そのころ合いと機動隊がゴボウ抜きにするやり方と時刻まで、全て事前にスケジュール表で知っていた。シナリオはできていたのである。当日は分単位で、その通りに展開したことにも驚いて見ていた。

 この強行着工の直後に全動労協の記者会見があった。その場で筆者は、この反対闘争は事前に当局と話し合って計画した通りに行ったのではないかと発言をした。これに対しては直接応えずに、自分たちの闘争目的などを語るだけで、明らかにうろたえていた。会見が終わったあとに、革新系の人たちが、あの記者は何か知っているのだろうかと言うような話をしていたと聞いた。

 数日前に予定稿を書いてデスクに提稿し、当日は、追加でその日の現象を時系列で電話で送ることにしていたが、ほとんど直しがなく、付け加えることもなかった。後日、デスクから「君の予想は完ぺきだった」と言われたが、予想ではなく、実施計画そのものを予定稿にしただけだった。

 その後の伊達火電

 着工した伊達火電は、1978年1号機を運転開始、続いて1980年2号機の運転開始となり、約45年間にわたって運転された。しかし老朽化に伴い2023年に1号機、2024年に2号機を休止して役割を終えた。その後、北電は泊地域に原発を建設し、激しい反対運動があったが、別の話になるのでここでは触れない。

 もともと伊達火電は、破綻した「苫東計画(苫小牧東部開発)」が、巨大な国家プロジェクトを推進するために建設を進めたものだった。ところが苫東東部開発そのものが、その後破綻する。

 その主な原因、第一が石油危機(オイルショック)による産業構造の変化だった。1970年代の石油危機によって、計画されていた大規模な石油化学コンビナートや製鉄所などの重厚長大産業の需要が急減し、企業の進出がストップしたままになった。苫東計画を取材した筆者としてこれを総括すると、本州の面倒な公害産業を苫東地区に集めた計画ではないかと思った。正確ではないかも知れないが、大きく外れているとは思えない。

 経済状況の変動と需要のミスマッチもあった。高度経済成長が終わりを告げ、その後をバブル崩壊という歴史的経済破綻が押しよせる。長期的景気低迷に入り、広大な開発用地に投資・進出する企業がなくなった。運営主体だった第三セクター(旧・苫小牧東部開発株式会社)の経営は、用地買収や基盤整備のために多額の借入金の負債が累積し、利息負担が膨らみ経営を圧迫した。

 また1970年代から環境保護運動が全国的に広がり、大自然を売り物にしている北海道でも、いたるところで自然を親しむ運動が展開することになる。筆者もその波に乗って、北海道の大自然を満喫しながら取材活動を展開することになる。苫小牧地区でも、ウトナイ湖周辺を含む豊かな自然環境の保護を求める運動が起こり、開発計画の一部見直しとなった。

 北海道の革新陣営の消長については、学校の主任制度反対運動の取材に関わった体験からも深く感じた。そのころから社会党はいずれ潰れると筆者は確信するようになった。主任制反対運動について書くので、その中で触れたい。

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