北海道転勤から9日後に起きた炭鉱事故
札幌転勤から9日目の1973年3月9日、札幌から北90キロにある上砂川町の三井鉱山砂川鉱業所の地下700メートルの採炭場で、崩落事故が発生し6人の坑内員が生き埋めになった。第一報が札幌の編集部に届いたのは、夕刊時間帯が終わった午後3時ころだった。生き埋めになった坑内員6人はほぼ、絶望だろうという空気が流れ、筆頭デスクの伊藤さんに呼ばれた。
「馬場ちゃん(そう呼ばれていた)、北海道に来たからには炭鉱事故は、一度は体験してもらいたい。上砂川の現場にすぐ行って、キャップになって指揮をしてくれ」
札幌から旭川に向かって国道36号線を90キロ走ったところで上砂川町がある。この辺は田園地帯が広がる米作りの一大産地であった。
大きな事件や事故の現場キャップは、それなりのベテラン記者が指揮する。筆者(当時32歳)のような若造がやるものではない。それを察したのか伊藤デスクは、現場キャップのやるべきことを、要領よく話をしながらメモを書いていく。「原稿は本版(全国版)にも行くので、紙面を作ってもらいたい」と言う。現場に詳しい通信部のベテラン記者をサブキャップにするので、事故の専門的な取材は彼に任せればいいという。札幌取材班の5人はジープに乗って、雪がまだ残っている道央地帯の炭鉱街へ向かって国道36号線を猛スピードで突っ走っていった。

地下掘削現場の画像。トンネル掘削の画像なので炭鉱現場とはだいぶ違うが、参考まで掲出した。
家族控室で感じた「炭鉱文化」
会社事務所で事故の概要と救援部隊の話を一通り聞き、あちこちに排泄雪山が残る炭住街を歩いてみた。木造長屋、平屋建ての集合住宅街であり、いつ壊してもいいように簡素に作ってある。冬の寒さと豪雪から守るため、長屋全体がビニールで覆われており、ビニールハウスのようにも見える。鉱山は人里離れた山の中にある。8時間、3交代制(8時間×3=24時間)の就業だから休みなく一日中、坑内員が交代で700mの地下で石炭を掘って地上へ上げる作業だ。
一番方から3番方まで従業員は、役割分担があって、切羽(きりは、石炭を掘る最前線の現場)で掘り出した石炭をエレベーターで地上に上げていく。その切羽付近で崩落事故が発生し、6人が生き埋めとなった。地下700mの採炭現場と聞いて想像を絶する世界だと思った。
生き埋めになった従業員の家族が集まっている控室に行った。数十人が詰めていたが、ほとんどが女性であり子供はいなかった。女性はみなきれいに着飾っており、お化粧が濃い。スナックか酒場の女性に見えた。取材してみるとみな、この炭住街の住人で、生き埋めになった被害者の奥さんを囲んで、近隣の知人らが集まっていた。
話をそれとなく聞いていると、生存を願う言葉の端から、閉山になることを心配する言葉であふれていた。事故がもとで閉山に追い込まれた鉱山が多数ある。閉山になれば、炭住街から出ていかなければならない。台所を預かっている主婦たちの話は、どうしてもそっちに行くらしかった。
スルメ一枚で奇跡の生還
事故当時、坑道では22人が作業をしていたが、16人が自力で脱出し6人が生き埋めとなった。救援隊の必死の作業も届かず、5人が遺体で発見され35歳の坑内員1人が事故発生から77時間後に奇跡的に救助された。
崩落した岩盤の狭いすき間に入り込み、地上から休みなく空気を送っている救命バルブからかすかに吹き出す空気に顔を寄せて救援を待った。そのとき、持っていたスルメをかじっては飢えをしのいだが、その間、水分は取れず、絶望感に何度も襲われたという。坑内に入るときは、万一に備えてスルメを1枚、持って入るのがクセになっていたことが命を救った。
救助隊は、山鳴り(岩盤のきしみ)を聞きながら、二次災害の危険を冒して、必死でガレキを除去しながら、崩落現場に近づいた。救助隊がそばまで来た気配を感じた坑内員は、持参していた笛を思い切り吹いた。「誰かがいるぞ」、「大丈夫か!」。救助隊が必死になって坑内員にたどり着いて救助した。
全国版の社会面トップを飾る
スルメ一枚で助かった話は、聞いているだけで感動した。現場の取材チームは手分けして関係者から話を聞き、すぐに札幌へ送った。原稿を作る題材を送るのである。札幌にはベテラン記者が待ち構えており、送られてきた現場の話を整理してつなぎ合わせ、ストーリーを作って原稿を作っていく。
筆者は何をしたか。現場で取材してくる若い記者たちの話を聞き、メモ原稿を作らせ、それを修正しながらひたすら札幌へ電話で送った。情報量がモノを言う。札幌にはベテランがいるからあとは任せる。この手法は、社会部時代の3億円事件で鍛えられているので迷いはなかった。翌日の紙面をみたとき「やったな!」と仲間と喜び合った。他社を圧倒する紙面だった。
人間の生命力を感じた生還したドラマ
救出された坑内員の現場での話は、会社の担当者を通して聞いたものだが、人間の生命力の強さを感じて感動した。地上から700メートルの地底の狭い空間に閉じ込められた。水もない、光もない、仲間の安否も分からない、救助が来る保証もないという状況の中で、「生きて帰りたい」と思う執念があったからこそ成功したものだった。
地下の救援作業を終わって、地上へ帰ってくる坑内員の姿を坑口で待ちかまえた。眼と口の周辺を除いて炭塵と砂塵で全身真っ黒になった姿は、息をのむような迫力があった。石炭を掘る作業環境がいかに過酷であるか。報道陣は多数いたが、言葉をかけて取材するような雰囲気ではなく、カメラを向ける記者もいなかった。
事故に追われるように閉山相次ぐ

1970年代の炭鉱事故をまとめてみると、上の表になる。ガス突出・爆発事故がほとんどで、筆者が取材した坑道の崩落事故は1件だけだった。岩盤内にたまっていたガスが、採掘しているときに吹き出してくる事故がほとんどで、ガスに発火すれば瞬時に大爆発となる。死者数が多いのはこのためだ。
筆者が取材した三井砂川炭鉱事故は、坑道の崩落事故であり死者も5人と少なかった。1975年11月の三笠市の幌内炭鉱(死者24人)、77年5月の芦別市の芦別炭鉱(死者25人)は、担当にならなかったので現場に行く機会もなかった。しかし一度体験すれば、あの過酷な労働環境と効率の悪いエネルギー源を考えると、石炭が生き残る道は全くなかったことがよくわかる。
炭鉱事故の後は、どのヤマも閉山に追い込まれ、国内の大半の炭鉱はなくなった。筆者にとっては、歴史の一端に触れる貴重な取材体験だった。


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