ヒュー・ミルン / 鷺沢立也 訳 第三書館

少し前にNetflixで、「ワイルド・ワイルド・カントリー」という6話構成のドキュメンタリーを観た。
1970年代から1990年にかけて活躍したインドの出身のグル、バクワン・シュリ・ラジニーシ(OSHOラジニーシ)についてのドキュメンタリーである。
この映像作品では、ラジニーシ教団が1981年にアメリカのオレゴンに進出し、1985年に派手な終焉を迎えるまでのさまを、教団側と、反対に回った住民側の意見をそれぞれに収録して見せている。
1970年代にインドのプーナで始まったラジニーシの教団は、教祖のカリスマ性のある講話と、とりわけそのフリーセックスを説く実践主義に魅せられて、世界中から信徒を集めた。
ラジニーシはインドの大学で哲学を修士まで修め、大学で教える教授であったが、元々の宗教であるジャイナ教から大きく逸脱した教義を大胆に語り始め、最終的にタントラヨガによる快楽の実践、体内に宿る本能的・性的なエネルギーの生命力を解き放て、という大胆な思想を表明するに至る。
また、他の宗教を公然と批判し、当時のインドの首相だったマハトマ・ガンジーに対しても真っ向から否定してかかったので、国内での風当たりが徐々に強まり、この教団に対する反対運動が高まってゆく。インドでは人前で男女が触れ合ったりキスしたりすることは公序良俗的にありえないことであったが、ラジニーシのアシュラム(共同修行場)では、女性達が薄手のオレンジ色のローブを着て肌も露わに動き回り、信者同士が自由にハグしたりキスしたりしていたので、インドの人々の反感を買うには十分な要素があった。
それに加えて、グルの教えによってすべてが容認されうると、解放された信徒達は、ダイナミック瞑想と言われるすべての葛藤を取り除くのが目的とされる瞑想の中で、多くの暴力行為が起き、骨折などの事故も相次いだ。マリファナやLSDなどの麻薬類の使用や売買も公然と行われ、アシュラムの経営者たちは信者達から集めた資金で潤ったが、当局に税金を支払うことは拒否した。その間に、ラジニーシは世界中でますます有名になり、主に欧米から数千人の信徒達が押し寄せてきた。
そのような様々な要素から、インドに居続けることが困難になったラジニーシとその側近たちは、アメリカ、オレゴン州の田舎の打ち捨てられた廃牧場を500万ドル余りで手に入れ、1981年に移住した。教祖を追って、多くの信徒達がオレゴンの荒地に集まってきた。そこは東京23区の面積と同等の広大な土地であったが、不毛の砂漠化した荒野で、住むには敵さなかった。が、信徒達は不眠不休で1日12時間から16時間の肉体労働を行いダムを作り、農業用水用の水路を完備し、木を植え、有機栽培の農業の実験を行なってゆく。
同時に、ラジニーシの側近だった米国籍を持つシーラという女性により、オレゴンのコミューンは管理された帝国と化し、様々な規則と強制的な労働、また幹部による搾取とコントロールが日常化され、インドのアシュラムでの自由な雰囲気や自己探求の瞑想的な活動は姿を消してゆく。
この土地の自治権を得ようとしたラジニーシ側は、住民が40人しかいなかったアンテロープ市に多くの信者のアメリカ人を送り込んで住民票を得、ついに乗っ取りに成功して市はラジニーシプーラムと名前を変える。旧来の住民との摩擦が激しくなると、警察機構も信徒で固め、機関銃を持った信徒の警官達が町に出没することになる。
裁判官の選挙結果を変えようと、サルモネラ菌によるバイオテロを起こしたり、スパイを州議会に送り込んだり、信徒の言動を盗聴したりと、シーラの行動は徐々にエスカレートして、ついに逮捕状が出るに至る。それを察知したシーラは、側近とともに飛行機で西ドイツに高飛びする。
その後ラジニーシはシーラを公然と批判し、資産を持ち逃げし、数々の犯罪にかかわったとしてオレゴン州の警察にシーラを訴えるが、ラジニーシ自身も徐々に追い詰められ、ついに大陪審の召喚状が届くこととなる。そしてラジニーシもまた飛行機で逃げることとなるが、元々観光ビザでアメリカに入国していたラジニーシに受け入れ場所はバミューダ諸島しかなく、その乗り継ぎの際についに警察に逮捕される。
ラジニーシの起訴は、不法滞在、偽装結婚の共謀など多くの容疑があったが、健康悪化を理由にこの教祖は、4000万ドルの保証金を支払って一部の罪を認めた司法取引を行い、国外退去処分となってインドに舞い戻る。その後のラジニーシプーラムは信者が去り、解体されて、元の平和な町に戻って行った。
ここまでが、Netflixのドキュメンタリーの概要であるが、この『ラジニーシ・堕ちた神(グル)』という本を書いたヒュー・ミルンはイギリス人であり、1973年ごろからロンドンで開かれていたラジニーシのアシュラムで瞑想などに参加し、同じ年、インドに向かってバグワンに出会う。一目で魅了された著者は、アシュラムに長期滞在することとなり、ひいてはバグワンのボディーガードのリーダーとなって、間近でこの教祖に接することとなった。
この教祖の魅力について著者は、その眼差し、幻惑するような講話の語り口、額に触れられた時のエネルギー、一瞥しただけで心を読み取ることのできる能力、などを挙げている。多くの欧米人がアシュラムを訪れ、ダルシャン(謁見)でバグワンに見つめられて恋に落ちた、と語っている。Netflixのドキュメンタリーで見たラジニーシの初期の頃の映像では、人を幻惑するような独特な眼差しと、講話の際の長く伸ばした語尾、微笑みと会衆を鼓舞するように扇動するエネルギーは、たしかに魅力的に映る。
著者はインドからオレゴンに渡る最初の側近40名のうちの一人で、初期の牧場の大規模な工事と設営のために、1日16時間も働き続けたというが、シーラの独裁とラジニーシに対する幻滅から、1983年ごろこの運動を去る。ラジニーシコミューンに参加したい人間は、自分の財産をすべてコミューンに寄付することとなっていたのに、その頃この教祖は、ロールスロイスを90台と、ダイヤの散りばめられたロレックスの時計を数百個も所持していたという。
運動を離れた著者は、深刻な鬱状態と不安から、一時は精神病院に入院した時期もあり、元の生活(接骨医)に戻るのに数年間を要したという。離れたあとも、家族のように暮らしたコミューンに対する愛惜の情が募り、一時は戻りかけたこともあった。
ラジニーシは1990年に心臓発作によって死ぬが、その死因も、当局によって盛られた遅延性の毒に依るもの、あるいは側近の医師による毒殺など、さまざまに取り沙汰されている。
ラジニーシの死後、教団はラジニーシ・ファンデーションを設立し、教祖の語ったテープ、映像、書籍などの出版権を掌握して、一時の悪名を削ぐことに成功した。発祥地のインドのプーナでは、様々な瞑想やリトリートを行う高級リゾートを経営し、現在も世界中から富裕層を集めている。
この本の翻訳者の鴫沢立也氏は、友人の配偶者であり、一度ご本人に会ったことがある。名前はペンネームで、西行法師の「心なき身にもあはれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮れ」から取ったということ。鴫沢氏も若い頃からカウンターカルチャーに惹かれ、ロンドンの書店で偶然見つけたこの書籍を訳せないかと出版社に問い合わせたところ、日本語での出版が実現したとのことであった。(鴫沢氏は出版社に属する編集者であった)
鴫沢氏に会った時点ではこの著作は読んでいなかったのだが、1991年の出版時にはかなり話題に登った記憶がある。Netflixのドキュメンタリーを観た後、なぜ人々がここまでラジニーシという人物に惹きつけられたのかが知りたくなり、この本を取り寄せた。
数々の哲学書や宗教書を読みこなし、一時は一日15冊を読破することもあったというラジニーシ、その講話の内容は多岐に渡り、話題は宗教、哲学から心理学、芸術、とりわけセックスの解説とその霊的効用にまで及んだ。数々の宗教の断片を語ったり、かと思えば現代の話題のトピックスに言及したり、ある種の深淵さと神秘を伺わせる。
これだけの信者を惹きつけ、今もなお世界に影響を与え続けているラジニーシとは、一体どんな人物であったのだろうか。
読んでみての結論としては、直接会って、共に活動してみた経験のないものには、その魅力は所詮わからない、ということであった。
しかし、生前、もしもラジニーシの著作や活動に出会っていたとしたら、もしかしたらプーナやオレゴンに会いに行っていたかもしれない。そしてもしかしたら、私も幻惑されて、活動に従事したかもしれないという可能性もありえる、そのような人物に思えた。
インドの神秘的なタントラヨガという思想と実践、フリーセックスによる感覚の解放、世界に愛と平和の理想郷を作るという目的、世界中の人々と結ばれた絆・・・。カルトの描くヴィジョンは常に美しい。しかしその成就は、常に困難である。(千)


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