<第50話>統治行為論で逃げた長沼ナイキ控訴審判決

記者馬場錬成一代記

 控訴審判決に備えて猛勉強に明け暮れる

 一審札幌地裁の「自衛隊は違憲」とする判決を受けた札幌高裁の控訴審は、小河八十次裁判長となった。小河裁判長は、理論派で厳格な法解釈で知られていたようで、この裁判長人事は最高裁からの「送り込み人事」とか「長沼シフト」と言われた。国が負けないように配慮しているという意味だった。

 筆者は、控訴審の原告・被告の双方の主張を勉強することにしたが、裁判の取材は初めてであり、法理論はおろか裁判の仕組みもまだ分からなかった。原告側の事務所を訪問しては、取材と称して勉強することになったが、革新系の弁護士は、どの方も非常に親切でかつ熱心であり、何も知らない記者に懇切丁寧に教えてくれた。時には宿題を出されたときもあった。

 社会部時代「人間この不可思議なもの」の取材で、大脳生理学と分子生物学の最先端研究を取材したときを思い出しながら、猛勉強することにした。司法試験の勉強に使うような書籍を片っ端から読破していった。

 裁判所図書館で判決の行方を知る

 裁判所の図書館から書籍を借り出すこともできた。裁判所関係者しか借り出しや閲覧ができないが、記者クラブの記者にも特別に許されていた。おびただしい法律関係の文献や雑誌類がそろっており、判事や書記官がよく出入りしていた。

 控訴審に備えて、それらしい文献を借りたが、あるとき最後の表紙裏に差し込んである借り出しカードに、知っている判事や書記官の名前を見つけた。長沼ナイキ訴訟関係の判事、書記官の名前をすべて調べ、借り出しカードと照合していった。これが役立った。

 統治行為論という言葉と解釈は、原告弁護団から聞いて知っていたが、それに言及した文献を調べていくと、明らかに判事や書記官が借り出している。統治行為論とは、高度な政治的判断は司法になじまないという理由で、憲法判断を避けることを言う。

 裁判所は、唯一の違憲立法審査権を持っているから、立法・行政・司法の3権分立が成り立っている。学校の社会科で習ったことが、初めてきちんと理解できた。そういう体験もしながら、小河裁判長は、統治行為論で逃げる判決を出すような気がしてきた。原告側の弁護団も、それを非常に気にしていた。

 法廷は原告側の住民と関係者でいつも満席

 控訴審の法廷は、原告弁護団が50人規模が常時、整然と座っていたが、被告国側の代理人は2,3人だった。傍聴席はいつも原告側の住民や労働組合の人たちで、ぎっしり埋まっていた。口頭で弁論を陳述するのは、主として原告側であり、被告・国側は人を食ったような簡単な言葉を発するだけだった。このような口頭弁論を8回重ねていた。

 いよいよ自衛隊の実態審理に入っていく時期になってきた。原告側の弁護団は、自衛隊違憲に向けてどのような弁論を展開するか策を練っていた。毎回、弁論が終わると原告側の事務所に行って、当日の主張点を解説してもらった。これが非常に役立った。

 突然、事態が動いた。1976年4月の第9回口頭弁論の終了間際、小河裁判長が突然「これをもって、結審とします」と宣告した。それまで水をうったように静かだった法廷全体がざわっと動いた。原告弁護団の代表をしていた弁護士が立ち上がり「歴史の名のもとに裁判長を忌避します」と大きな声で言い放った。

 記者席の眼の前で展開されたこの光景は、今でも鮮明に覚えている。「歴史の名のもとに・・・」という言い方を初めて聞いた。なんと格好いいことを言うのかと感動した。しかしその後、裁判官忌避は却下され、判決日は8月5日と決まった。

 控訴審判決に備えて予定稿を準備

 判決まで3か月余しかない。判決内容は①一審の判断を認める原告勝利、②国側の主張を認める被告側勝利、③優れて政治行為であり司法判断になじまないとして統治行為論で逃げる。この3点のどれかに絞られた。結果は一審の判決を破棄し、②の国側の主張を認めたうえで③の統治行為論にも言及したもので、住民側の主張は全く聞き入れない判決だった。大騒ぎした「自衛隊違憲」にほ露ほども触れられず、長沼ナイキ訴訟は、薄っぺらな判決文冊子で終わった。

 原告側は直ちに上告したが、最高裁はこれを小法廷で裁き、控訴審判決を認めて長沼ナイキ訴訟に終止符を打った。最高裁は大法廷でなく小法廷で裁いたことで、「虫けらのように扱われた」(原告側のコメント)という印象を残した。

 ほぼ1年間にわたってこの事件を担当した筆者は、何をしたか。司法・裁判所と行政訴訟のあらましを根本から勉強し、その後の取材活動で大いに役立った。公害や薬害、各種の損害賠償請求訴訟から知的財産権の権利侵害訴訟まで、新聞記者の仕事の多くが裁判・司法に関連することが多い。しかし長沼ナイキ訴訟を徹底的に勉強したことで、基本的な訴訟の取り組みや取材の物腰が分かり、今になるまで非常に役立った。

 控訴審判決の言い渡しは、午前10時だった。夕刊締め切りギリギリである。判決をすべて聞いていたのでは、間に合わない。記者クラブは裁判所と交渉して、小河裁判長が冒頭に主文を読み上げた時点で、判決全文を記者クラブの全社に配布するように要請し、受け入れられた。

 主文を聞いた後、キャップクラスの記者があわただしく退廷して外に出た。法廷を出た廊下で、裁判所職員が用意していた大きな紙封筒を受け取り、クラブに走った。走りながら封筒を破るように開封し、後ろの方の結論部分から読み始めた。判決の本記は、東京の社会部司法記者クラブから応援に来ていた先輩記者が書き、筆者は判決の解説を書いた。

 「判決は後ろから読み解け」と社会部の司法記者から教えてらっていたので、その通りにしたが、なるほど役立った。

 予定稿で、①原告勝利、②原告敗訴、③統治行為論に重点を置いた3つの解説を用意していたが、判決の主体は③であり、ほぼ予定稿の通りの内容の言い渡しだった。図書館から借りた文献に書いてあった法理論が、色濃くにじみ出ていた。

 手早く手直しして締め切りに間に合わせた。裁判の解説は、必ず執筆記者の名前が出るので、緊張する。何よりも他紙の解説と比較されるので、見劣りすることは許されない。しかし新聞は全て可もなく不可もなく、大体似たような解説だったように記憶している。

 札幌の司法担当記者として活動

 この訴訟を担当したことから、札幌の司法記者クラブを2年ほど担当した。各種裁判を担当したが、それよりも札幌地検が独自捜査で大きな刑事事件を次々と手掛けたため、そちらにエネルギーを取られた。取材合戦が激しかった。この件は別に報告するが、筆者は取材競争には負けなかった。警視庁記者クラブ時代の経験が非常に役立ったからだ。

 一審で歴史的な「自衛隊は違憲」の判決を出した福島重雄裁判官の生涯に触れたい。福島裁判官は、この判決後に東京地裁に異動し、手形関係の訴訟を担当した。そして福島地裁、福井家庭裁判所と異動し、高裁の判事にはなれずに終わった。退官後は公証人となり、富山県の弁護士会に所属して弁護士として活動した。
 平賀書簡問題という司法の独立が揺らいだ危機的な局面において、裁判官としての良心と信念を貫き、その後も職務を全うされた。1970年には青年法律家協会(青法協)に所属していたことが問題視されたが退会しており、思想的に問題ある発言や行動はしなかった。平賀書簡を公表したことで、「訴追猶予」という決定をうけたこともあったが、裁判官の地位を失うことなく、最後まで裁判官・法律家としての職務を全うした。

 福島氏は晩年、長沼事件と平賀書簡問題について、日記をもとに真実を語るため2009年に、水島朝穂氏・大出良知氏との共著『長沼事件 平賀書簡 35年目の証言 自衛隊違憲判決と司法の危機』(日本評論社)を刊行し、事件の真実と司法の独立性がいかに脅かされたかを詳細に証言した記録を出版した。筆者はこの証言録を読んだ時から、お目にかかって取材したいと頭の片隅にいつもあったが、実現することなく、2025年2月8日、肺炎のため富山市内の病院で死去した。94歳だった。

 思いついたらすぐ、取材行動を起こすべきことをしなかった悔恨をいまだに引きずっている。

長沼ナイキ訴訟で勝利した国は、地対空ミサイルを装備し、見学者にも展示するようになった。訴訟当時、日本の憲法学者の大半は、自衛隊は軍隊であるとして憲法に違反しているとしていたが、憲法学者の判断は何の効力もなかった。

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