<第52話>日本のトップに上り詰めたジャズシンガー黒岩静枝さん

記者馬場錬成一代記

 ジャズと向き合う真摯な情熱にひかれる

 札幌すすきののクラブ「コンコルド93」で唄っていた黒岩静枝さんは、当時、26歳で一児の母だった。グループサウンズ(GS)でヒット曲を続けて出していたキッパーズのバンマス、渡部弘康さんの奥さんだった。ジャズを唄っていたが、どれも歌唱力が抜群であり、聴く者の心にしみわたってくる。

 取材でいろいろ話を聞いたが、ジャズにかける熱情が半端でなかった。唄うことこそ人生そのものであり、そのために日常で発生する育児・家事にも手抜かりなくエネルギーを傾けている。黒岩さんの恩師である中学校の担任にも会って聞いたが、「勉強がよくできる頑張り屋であり、周囲に気配りする子だった」と語った。

 ジャズの代表的な「テネシーワルツ」なども唄うことがあったが、それまで聴いていた曲想とは明らかに違う。筆者がファンだった江利チエミも唄っていたが、それとも違う。黒岩さんしか表現できない音と声が、個性となって流れてくる。野太い声量も魅力的だ。筆者はたちまち黒岩さんのファンになり、この歌手は日本を代表するジャズ歌手になっていくに違いないと本気で思い始めた。

 大型連載企画「人間」の掲載に成功

 そのころ、読売新聞北海道版の夕刊に「人間」という大きな見出しを付けた連載シリーズがあった。功成り名を遂げたいわば有名人の人生を紹介するもので、ほぼ1ページを占める大型特集である。その執筆担当になっていたので、そこへ登場してもらおうと考えた。

 黒岩さんは無名のすすきののクラブ歌手である。このシリーズに出てくるような人物ではない。しかし筆者は、この歌手は絶対に日本のジャズ界のスターダムに成長していくに違いないという確信に似た気持ちになっていた。しかし担当デスクに、企画案を出せば却下されるに決まっている。そこで作戦を変えて、いきなり原稿を作り、それを読ませて掲載までもっていこうと考えた。

 しかし案の定、原稿を一読したデスクは、言下に「これは難しいな。なにか話題ものにでもしたらどうか」と提案してきた。しかしそれでは意味がない。担当デスクは温厚な年配者だった。原稿はしばらく宙に浮いていたが、筆者はあきらめずにデスクに何度か交渉し、ついに掲載までこぎつけた。それがこの記事である。

1974年5月10日付け、読売新聞北海道版の「人間」という大型企画ページに掲載された黒岩静枝さん。「ジャズこそわが人生」という見出しは、筆者が提案して採用された。

 渡米修行で立派な社会人に成長

 ジャズ歌手として歌唱力にますます磨きをかけた黒岩さんは、筆者が見込んだ通り、いま日本のジャズ界ではトップクラスの歌手となった。女性歌手では間違いなくトップである。しかしここまでくるには、大きな壁をいくつも乗り越えなければならなかった。

 30歳を超えたころ、唄うとは何かとかこの先どう生きていくのか、日々多忙の中で考える時間が増えていく。いつしか日本を離れて一人で暮らしたいと思うようになった。アメリカに単身渡って、ジャズを根本から学び直したい。ご主人の渡部弘康さんに言うと「行っておいで」と快く送り出してくれた。

 筆者は、黒岩さんが渡米する前に東京で、帰国後に渡部さんも一緒に札幌で会って話を聞いたが、黒岩さんは別人のようになっていた。英語漬けの中で苦労した話などを聞かされたが、黒岩さんのセンスで感心したのは、アメリカではやり出したコインランドリーを語り「あれは日本にも必ず入ってくる」と予言して、その通りになった。このように広い視野で世の中を見る人は、専門分野に関係なく必ず成功している。筆者の取材体験から確信していたので、そのことは今でも記憶に残っている。歌手としても社会人としても黒岩さんは存在感のある人間に成長していた。

 すすきのにジャズ専門のライブハウスを開店

 帰国後の1984年からすすきので、ジャズライブハウス「DayByDay(デイ・バイ・デイ)」を開店した。 グランドピアノを囲むカウンター席やテーブル席に座り、黒岩さんの唄を聴き、間近で生バンド演奏を満喫できる。

 札幌に行ったときは、「DayByDay」とすぐ近くの「ザ・キッパーズ」の店を忙しく往復して聴く楽しみがあった

 しかし黒岩さんは、ライブハウスの経営を安定させるため、苦慮する日々が続き、精神的に追い詰められていく。札幌東高の同級生の医師の診断で、しばらく休養を兼ねて入院するまで追い詰められていった。
 そこで同室になったおばあちゃんの窮状を見かねて毎日手脚を揉んであげたり一緒に散歩する仲になり、互いの病状も好転していく。この話しを黒岩さんから聞いたとき、中学時代の恩師の言葉をまた思い出していた。
 「あの子は、人を思いやる気持ちが人一倍強く、人を引っ張っていく力がある」
 入院、休養の試練を乗り越えてすすきのに復帰した黒岩さんは、精神的に強くなったのだろう。活動のエネルギーが躍動していく。音楽活動を通じて何か社会に役立つことをやりたい。その気持ちが、その後様々なチャリティ活動につながっていく。

 その後黒岩さんは、名ドラマーで鳴らしたジョージ川口さんの引きで、東京銀座のライブハウス「スウィング」の常連ジャズ歌手として出演するようになる。「スウィング」は、日本の歌手やバンドでもトップクラスが出演するライブハウスであり、私も常連客のひとりだった。そこに認められて出演することを聞いた筆者は、自分のことのように名誉に思った。

東京・銀座西2の2 銀座インズビル2Fの「スウィング」で唄う黒岩さん。黒岩さんのファンが固定化してきたので、出演する日はいつも満席である。札幌から帯同するドラムの佐々木慶一さんらのバンドをバックに客席と一体化したステージをつくってファンを堪能させている。

 道新がついに追いかけてきた

 2026年5月26日付け、北海道新聞(道新)が<私のなかの歴史>と言うシリーズで「ジャズシンガー・黒岩静枝さん 魂の歌声を届けて」を始めた。第1回に「人生60歳から 一生涯現役、走り続けたい」という副題が掲げられている。筆者が読売新聞の「人間」シリーズで掲載してから52年ぶりに、北海道を代表する道新にシリーズとして登場し、斉藤高広記者が全18回にわたって黒岩さんの活動歴を詳細に紹介・執筆した。シリーズに登場するのを聞いたときには、来るべきものが来たと筆者は思った。道新の看板シリーズは、黒岩さんのジャズ人生と社会活動を余すところなく語っていた。

 パークホテルで盛大なチャリティコンサート

 このシリーズの終わるのを待ちかねたように黒岩さんは、8月2日にパークホテルで450人を集めた「チャリティ ディナーコンサート」を開催した。大盛会のコンサートに筆者も参加して黒岩さんを心から祝ったが、この会で様々な人と出会い、黒岩さんの社会活動が全国規模で広がっていることを改めて知った。

パークホテルのチャリティコンサートで熱唱する黒岩さんに、みな酔いしれていた。

 コンサート終了後、黒岩さんの素晴らしい歌唱と温かいスピーチを称えた。

 日本中に広がった被災者への支援活動

 弱い人に手を差しのべることは、黒岩さんの人生そのものでもある。貧者への弁当配りから始まった活動は、精神障害者や養護施設支援から地震、豪雨災害の被災者への支援へと全国に広がっている。黒岩さんが動かなくても、全国に広がっている知人らからの「頼む」の声掛けも多くなってきた。魂を震わせる歌唱を被災地に届けて励ますチャリテ―コンサートが、黒岩さんの晩年の活動に光彩を添えている。

 道内の北海道南西沖地震(1993年)、有珠山噴火(2000年)だけでなく新潟県中越地震(2005年)、東日本大震災(2011年)、能登半島地震・豪雨(2024年)、熊本豪雨(2020年、2025年)などの被災地に出かけて支援活動をする。60歳を超えてからの行動範囲は驚くほどである。

  あすなろ福祉会見学に参加

 札幌パークホテルでのチャリティコンサートの翌日、札幌から40人ほどがバスに乗り込み、一泊で桧山郡江差町にある社会福祉法人のあすなろ福祉会の見学ツアーに行った。障害者らが働くバリアフリーホテルに宿泊して温泉に浸かって楽しんだが、施設出身の自閉症のピアニストとの共演などを通じて、施設との交流が広がっていた。 

黒岩さんを囲んで盛り上がったバリアフリーホテルの大宴会

 黒岩さんは、こうした活動の合間に、歴史的な施設でも演奏会を開いている。たとえば、奈良市の国宝新薬師寺本堂でのリサイタル、福岡太宰府天満宮で平安時代の宮中行事を再現する「曲水の宴」での演奏会にも出演している。こうした行事に招かれるのも、黒岩さんのジャズ歌唱が人々の心に染みる圧倒的な感性を持っているからだろう。

 NHKの紅白で唄ってほしい

 「ジャズこそわが人生」をひたむきに生きてきた黒岩さんに、筆者は年末恒例のNHK紅白に出演してほしいと願うようになる。紅白の出演ジャンルをちょっとだけ広げれば、実現できるのではないか。全国に黒岩ファンが広がっている。黒岩さんに世話になった人々も多数いる。その人たちの願いでもある。実現へ歩を進めていきたい。

コメント

タイトルとURLをコピーしました