国立近代美術館

国立近代美術館で9月13日まで開催中の、「杉本博司 絶滅写真」を観に行った。
杉本博司は、カメラマン、建築家、舞台芸術演出家、古美術蒐集家、美術・美術史評論家など様々な肩書きを持つ、現代アーティストである。2017年に文化功労者となり、現在芸術院会員、フランスのレジョンドヌール勲章(オフィシエ)も受賞している。
彼のキャリアの始まりは、ロサンゼルスの写真学校で、その後プロカメラマンとしてニューヨークに渡り、生活のため日本美術の骨董店も営みながら、現代アーティストとしての活動を続けてきた。
以前より美術愛好家の中では有名であったが、その存在が注目され始めたのは、現代アートの島・直島の護王神社の設計や、真鶴に展開された「江之浦測候所」の表出であったろうか。
「直島〜護王神社」

「江之浦測候所」

「護王神社」では、神社の柱や屋根のプロポーションを古代の神社制作期のものに戻し、地下にまでつながる階段には、杉本の開発した透明な光学ガラスを使用している。
「江之浦」測候所の広い敷地内には、古代の石舞台や茶室、春分・夏至の太陽が観測できる構造物、縄文土器や鎌倉時代の十三重の塔などが無造作に配置されている。
写真家でありながら現代アーティストを標榜し、それでいながらこのような歴史に根ざした建造物や、広大な土地にインスタレーションのような空間を創作している意図が不明だった。
今回の「絶滅写真」展では、すべてがモノクロの、引き伸ばされた巨大な写真作品で構成され、技法としては銀塩写真である。これは光に反応する銀の化合物(ハロゲン化銀)を感光材として利用する、デジタル写真登場以前の写真のこと。杉本は8×10の大型カメラを使用し、厳格なコンセプトに基づき撮影している。
テーマは、「ジオラマ」「劇場」「海景」など13のシリーズでまとめられている。
「ジオラマ」では、古代の風景の中を歩く原始人の姿が写されている。本物と見まごうほどのものだが、原始時代の風景を撮影できるはずもなく、アメリカの自然史博物館の模型などを使用して制作されている。これは、すこしピントをぼかすことによって、人工物があたかも自然物のように見える性質を利用したという。ここには、「写真は真実を写すもの」というコンセプトに囚われていると、本物らしい偽物を呈示されても気づかない、という逆説が込められている。
「劇場」は、世界中の様々な劇場を、舞台を中心に据えた同様のアングルで撮り続けたシリーズである。中には映画館も多いが、その舞台上の画面は常に真っ白で、何も映ってはいない。
「海景」では、水平線を画面の中心に取り、常に海と空の比率を同等にして、世界のあらゆる海の風景を撮っている。
このシリーズは杉本の原点であり、幼い頃に見た小田原の海の風景が起点となっている。
一切の人工物を含まないこのシンプルな光景は、かつて何百年も前に古代人も見たかもしれない風景とつながっている。
他にも、本物そっくりのマダム・タッソーの蝋人形を写した「肖像写真」のシリーズ、これは昭和天皇やナポレオンなど、あたかも本人が肖像として写されているように見える。
また、フランクロイド・ライトやコルビジェの代表的なビルディングをピントを外して写した「建築」では、ぼんやりとしたシルエットとにしか映らない建造物の形は、ディテールを排することにより、建築家本人が目指した理想の形をより良く表しているとのコンセプトが伺える。
こうした一連の写真作品を見て、その後杉本の創作した護王神社や江之浦測候所のヴィジョンを重ね合わせてみると、杉本の視線が、古代から現代にまで貫かれていることがわかる。
銀塩写真という媒体は、すでにデジタルによって絶滅の時を迎えているのかもしれない。
また、古代人はとうにいなくなり、多くの劇場も滅びてしまった。しかし、蝋人形として残された人物には生命が宿り、海景は古代から全く変わらない姿を人類の前に表象している。
滅びゆくものと生き残るもの、しかしその生き残ったものたちも、いずれは絶滅する運命にある。
宇宙はエントロピーの増大によって、すべてが均質化され、構造物もやがては朽ちてゆく・・・
そのような無常、すべては流転する世界のはかなさ。
写真芸術という可能性を追求しながら、杉本はその壮大な時間の集積を、凝縮してわたしたちに見せてくれているのかもしれない。(千)


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