歴史に残る大誤報と誤認逮捕
3億円事件の最大の汚点は、モンタージュ写真をもとにしたメディア報道の先走りとツメの甘い捜査による誤認逮捕だった。
日本弁護士連合会(日弁連)人権擁護委員会も「三億円別件逮捕調査特別委員会」を設置し、警察とメディアによる人権侵害の実態調査を行った。そして「逮捕勾留など身柄拘束につき、厳格なる令状主義による司法抑制を定めた憲法および刑事訴訟法に、明らかに反し許されない」と厳しい見解を発表した。
メディアに対しては「犯罪報道で被疑者の名誉と人権を尊重していなかった」と厳しく指摘し、犯罪報道に当たっては、当然のことだが被疑者の名誉と人権を尊重するよう勧告を発した。
3億円事件特捜本部がモンタージュ写真をいれて全国に手配した書面は、多くの人に記憶として今なお残っているに違いない。ニセ警察官のモンタージュ写真は、有力容疑者として捜査を受けた少年Sの顔をほぼそっくり採用したとも批判され、警視庁は顔の部分をぼかしたうえで1971年に再手配したが、1974年にこの手配書を破棄した。

本物の手配書写真を加工して顔の部分をぼかした手配書を作った。手配書にあったモンタージュ写真は、「鼻筋とおった好男子」の顔だった。
モンタージュに似た青年Aが急浮上
3億円事件発生からほぼ1年後の1969年12月12日、毎日新聞朝刊の社会面に大特報が掲載された。
「三億円事件に重要参考人 府中市の元運転手」という大見出しで、全体としては重要参考人ではなく容疑者の書き方になっていた。これを見たときの筆者の驚きは尋常ではなかった。ああ、事件はやっと決着したのか。毎日新聞に夜回り取材で抜かれたんだ・・・。
そのころ筆者は社会部内の異動で、捜査本部のある府中署から離れ、警視庁第5方面記者クラブ(池袋署が主幹)を経て第1方面記者クラブ(丸の内署が主幹)担当に変わっていた。3億円事件の取材から解放されたが、今度は過激派学生たちの街頭闘争や、爆弾闘争取材に追われる日々を過ごしていた。3億円事件の行方には非常な関心を持って過ごしていた。
毎日新聞の特報が捜査陣を刺激した
ここから先は後々になってから「真相」として知ったことだが、捜査本部は、毎日新聞の特報で青年Aが逃亡するのではないかと恐れ、新聞が配達される直前の早朝に青年A宅を訪れ、任意同行を求めた。そして報道関係者の目を逃れるため、捜査本部のある府中署ではなく三鷹署へ連行した。
こうなったのは裏事情があった。毎日新聞は特報に踏み切る間際、警視庁の土田國保刑事部長に「確認」の連絡を取ったらしい。これは刑事事件の捜査報道ではよくあることで、特報が盛り込んである紙面の輪転機が回る直前、その事件捜査の最高責任者に報道することを通告して、「承諾」を求めることがある。
当局は承諾などしないのが普通で、特報内容の正否について、なにがしかの感触を出すことが多い。「その報道は間違いだ」と明確に言われれば、輪転機を止めて削除することもある。
筆者も同じような体験をして、薄氷を踏むような特ダネを書いたことがある。それは後で、この一代記で報告する。
毎日新聞の青年Aの重要参考人特報の時は、その時点で捜査本部内でも、青年Aをシロとみる捜査員とクロとする捜査員に分かれていたという。
クロ説を支えた捜査見解はこうだった。
- タクシー運転手の経験があり、高い運転技術と現場周辺の土地カンを持っている。
- 3億円事件と同一犯とされた脅迫事件で、脅迫状に書かれていたカナタイプを打つ経験者である。
- 脅迫事件に関連して掛けられた脅迫電話の声が似ている。
- 被害にあった現金輸送車のセドリックに乗っていた4人に青年Aの写真を見せたところ似ているとの証言があった。モンタージュ写真にも似ていた。
- 脅迫状から検出された犯人のものと血液型が一致する。
- 事件発生の2日後に転居し、その後勤務先を欠勤したうえに退職している。
毎日新聞は記事の中で、脅迫状と青年Aの筆跡は一致していないなどの否定材料も入れてはいたが、全面的にクロ説を強くにじませたものだった。
毎日新聞の特報に慌てた各社は、一斉に青年Aをやや遠慮がちにクロとする流れで報道を始めた。
捜査本部が別件逮捕に踏み切る
任意同行した捜査本部は、早朝から深夜まで青年Aを追求するが、肝心の事件発生日のアリバイをめぐって捜査本部の調べと対立した。青年Aの単純な思い違いから、事件当日は池袋の宝石会社で採用試験を受けていたと主張した。しかし裏を取るとそのような会社は存在せず、捜査陣の疑惑を深めることになる。
任意同行を求めた日の夜中の11時半すぎ、捜査本部は青年Aを2件の脅迫の容疑で逮捕に踏み切った。2件の脅迫とは1年以上も前に月賦の滞納をめぐって取り立てに来た集金人とのトラブルから包丁を見せて集金人を追い払ったという件。
もう1件は、アパートの家主とアパートの鍵をめぐってトラブルとなり家主の部屋のタンスに包丁を突き刺して脅したというものだった。しかし後日、脅迫の被害者になっているはずの集金人も家主も、いずれも円満に解決したと報道関係者に説明している。
こうした些細なでっち上げに近い事件を理由に別件逮捕し、その事件よりも3億円事件の追及で落とそうとする捜査陣の思惑だった。別件逮捕した時点で青年Aは実名で報道されることになり、ほとんど犯人に近い扱いで各紙の紙面は埋まった。朝日新聞だけが、シロ説を強くにじませた紙面で報道した。
実名報道でアリバイ成立
青年Aの別件逮捕事件に発展し、捜査本部もクロを固める方向へ走り始めた。13日朝刊から実名報道がはじまり、青年Aのプライベートなことも書きたて、まるで犯人であるかのような報道内容になっていった。
しかしその日のうちに、捜査本部に驚愕の情報が寄せられた。
被疑者として報道されアリバイが不明と言われている青年Aは、3億円事件が発生した日の12月10日、朝10時から、自社で採用試験を受けていたとある企業から連絡してきた。日本橋にある貿易会社である。
電話を受け取ったのは、同じ空港内のビルの中にある警視庁空港署の畔柳第一署長だった。畔柳署長は、警視庁捜査一課殺人犯の主任警部補を務めた経歴があり、窃盗事件を扱う捜査3課と鑑識課長代理を務めた刑事畑のプロである。
署長は迅速に通報内容を確認し、かつて一緒に働いた武藤三男捜査一課長に電話で伝えた。アリバイ成立で青年Aは完全にシロとなり、釈放手続きが始まった。
畔柳第一署長は、その後警視庁交通部規制課長に異動する。実は筆者は後年、警視庁記者クラブ担当になり、この畔柳署長からネタの提供を受けて、交通違反取締の一大転機を原稿にする機会が訪れる。「第一」とはユニークな名前だなと思っただけで、そのような因縁が訪れるとは露ほども知らず、この劇的進展を驚いて見ていた。
残した負の遺産は大きかった
一年経ってもこの大事件の捜査は進展しない。犯行に使われた盗難車は3台、3つのジュラルミン・トランク、コートやハンチング帽、多磨農協などへの脅迫状など有り余る証拠物件があるのに、犯人にはどうしてもたどり着けない。
多摩地域を中心に、しらみつぶしに大捜査をかけていた特捜本部は、多数の情報の中から外資系事務所の職員だった26歳の青年Aにターゲットを絞った。その日の深夜、武藤捜査一課長からシロ・クロの結論を発表されるまで、メディアは全く予想できなかった。
苦渋のシロ発表
その発表のときはよく覚えている。青年Aがクロ説に傾いていくとき、筆者はいたたまれなくなって第一方面のサツ回り担当職場を離れて府中署へ行ってみた。夜になっての記者会見を聞きたいと思ったからだ。警視庁記者クラブのキャップをしていた門馬晋さんも来ていたので挨拶した。
そのとき何を思ったのか筆者は「私が来たからシロですよ」と言った。門馬さんはいつもの柔和な笑いを浮かべて「そうなればいいな」とつぶやいた。クロになれば、毎日新聞に抜かれた痛手が残るし、出遅れを取り戻すのは容易ではない。
深夜から府中署の講堂で武藤一課長の記者会見があるという。そこでいよいよ青年Aが3億円のホシであると確定した発表をするのか、あるいは調べた結果シロだったと発表するのか、皆目わからなかった。
深夜の11時半ころ、講堂は100人を超す報道陣で埋まった。床にじかにあぐらで座り、武藤捜査一課長らは用意された机の前で発表する段取りだ。締め切りに迫られてじりじりする報道陣は、30分ほど前から息をつめてその瞬間を待っていた。
武藤捜査一課長が登場したときの表情からは、何もうかがい知ることはできない。しかし課長は席に立ったままいきなり「Aさんはシロと断定し、先ほど釈放しました」と言い放った。その瞬間、講堂の中のあちこちで記者たちが立ち上がり、どどど・・・という乱暴な音を残して締め切り間際の原稿突っ込みに走っていった。

画像説明 府中署の道場で警視庁捜査一課長が「誤認逮捕したSさんを釈放した」と絞り出すような声で発表した。当時の写真を参考にAI(ChatGPT)が作成した。一課長は左端を想定している。顔は似ていない。念のため。
この別件逮捕と報道機関の人権侵害報道は大きな問題として取り上げられた。先に述べたように日弁連人権擁護委員会から厳しい意見や勧告がだされ、人権派の有識者からは厳しい批判の声が上がった。
この別件逮捕とその尻馬に乗った人権侵害報道は、その後の犯罪捜査の在り方やニュース報道の在り方に多大な影響を残した。その点で3億円事件は、別の局面で歴史に残る事件でもあった。
つづく


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