<第10話>安田講堂占拠と過激派学生運動 ②

記者馬場錬成一代記

全学連闘争から全共闘闘争へと転回

 この一代記を書き始めて改めて思ったのは、社会部記者として第一歩を踏み出していった筆者は、いきなり時代の転換点になった大事件と社会現象にぶち当たったことだった。それは非常に恵まれた取材体験をしたことになり幸運だった。

 学生運動はあの時代を象徴する社会現象だった。1960年代後半から勃発した学生運動は、それまでの政党・党派主導型の全国的に統制した運動ではなく、各大学がばらばらに運動を展開したもので、そこには「我々も立ち上がろう」という学生たちの競争心があったと思う。主導したのは各大学で組織された全学共闘会議(全共闘)である。

 全学連(全日本学生自治会総連合)は、60年安保闘争を先導した日本の学生自治会の全国的な連合体であったが、全共闘は大学単位に細分化された学生運動だった。

 全共闘の双璧は日大と東大紛争だった。日大は秋田明大議長、東大は山本義隆議長でどちらも強力なリーダーシップで数千人の学生を束ね、大学を封鎖し当局と団交(団体交渉)し、大学の在り方を問い直す理念を主張しぶっつけていった。

 サツ回りに回ってくる取材は、紛争の衝突や団交などが起きている大学に行って、断片的な出来事を「見てこい」という社会部通信主任(デスクの下の役職)から下命されるものだ。全国的な動きや学生運動の大きな動向は、社会部のベテラン遊軍記者が警察庁・警視庁・文部省・大学などの情報を集め、それをまとめる役割をしていた。

 幾多の大学で団交や封鎖やデモが展開され、筆者も数多くの大学に取材に行ったが、それがまともな記事として掲載されことはほとんどなかった。

日大全共闘集会で演説する秋田明大議長のイメージ画像をAI(ChatGPT)が写真を参考にして作成した。

 秋田日大・山本東大全共闘議長の演説を聞く機会が何度かあり、これだけでも幸運だったと今では思うことがある。二人の演説は、ほとばしるエネルギーにあふれ、若き正義感と理念を真正面からぶつけて当局を追求する言葉は際限なく続き、共鳴せずにいられなかったこともあった。

 多少こちらが年上ではあったが、ほとんど同世代の人物が、かくも若者たちの心を強くひきつけていく。そのような感動があった。大きな学生集会や演説会の様子を取材しても、書く原稿は決まっていた。会場と集まった人数と集会の目的と雰囲気を書くと、無味乾燥な内容になったがそれも新聞報道には必要だった。

 経理の公開と全理事の総退陣を要求

 日大紛争の発火点は1968年4月、日大理工学部教授が裏口入学を斡旋して多額の謝礼金を受領して脱税したり、東京国税局の調査で日大に莫大な使途不明金があることが明るみに出たことだった。

 大学当局が、学内の運動部や応援団の体育会系学生を優遇し、学内の学生活動を監視・弾圧する実行部隊として利用していたことも一般学生の反感を買い、民主化を求める動きは父母やOBたちも巻き込んだ事件に発展した。バリケード・ストライキを断行し、1万人を超える学生を動員し、理事者との団体交渉を実現し、古田重二良会頭らに経理の全面公開や全理事の退陣を一時約束させるまで追い込んでいった。

 しかし、大学封鎖など過激な運動にエスカレートし先鋭化するにしたがって一般学生、父兄会も離れていき、秋田議長も公務執行妨害などで逮捕された。全共闘運動は急速に衰退していき、筆者の取材テーマもめまぐるしく変わっていき、いつしか日大紛争のことは忘れてしまっていた。

 50年後に勃発した同根の不祥事

 1969年から71年ころまで吹き荒れた日大全共闘紛争からほぼ50年経た2018年5月に、日大アメリカンフットボール(アメフト)選手の相手チーム選手への悪質タックル問題をきっかけに、日大のガバナンスを問われる事件が相次いで明るみに出て世の中を騒がせた。

 元理事長らのリベート事件、アメフト部員の大麻・覚醒剤使用、重量挙部などでの授業料不正徴収、付属病院をめぐる背任事件などが立て続けに発覚した。大学のガバナンス(統治機能)の不全や、体育会系組織内の隠蔽体質、民主化とはほど遠いトップダウン組織運営が背景にあると社会から糾弾された。志願者数減少や私学助成金不交付といった事態にも広がった。

 筆者は、こうした不祥事は一読者として各種メディア報道やネット情報に触れただけで取材することはなかったが、秋田明大全共闘議長の演説する姿を思い浮かべていた。今回の日大不祥事は、あの全共闘時代の不祥事と根は同じではないか。だとするなら日大経営陣は何も変わっていなかったのだろうか。

 安田講堂占拠から解放まで

 山本義隆・全共闘議長が先導する東大紛争は、医学部インターン制度をめぐる旧態依然とした大学の在り方を変えようとした運動から急速度で全共闘運動へと拡大していった。

 筆者は東大の紛争現場へ何度も取材で足を運んだが、そのころ社会部の先輩記者が取材中に学生たちに取り囲まれて袋叩きにあう事件があり、怖くて学生集団の中には入れなかった。報道の腕章とヘルメット、社といつでも連絡が取れるトランシーバーを肩からたすき掛けにして移動していたが、多くは警戒に当たる機動隊の隊列の後ろの方をうろうろしていることが多く、デスクから雑観を送れという指令が来れば、見てきた光景を送るだけだった。

東大安田講堂前で規制をあげる学生たちのイメージ画像をAI(ChatGPT)が作成した。

 東大全共闘を率いる山本義隆は、大阪府出身で東大理学部物理学科を卒業し、研究者として将来を期待された英才だった。大学院で素粒子論を専攻し、1960年代後半にはベトナム反戦運動にも関わった。東大紛争ではバリケード封鎖や団交を先導し、1971年1月17、18日の安田講堂占拠・解放事件の前後に指名手配・逮捕されたという事実だけしか覚えがない。

 というのも、安田講堂事件のとき、筆者はお茶の水駅周辺で断続的に発生していた学生と機動隊の衝突を取材する担当になっており、ヘルメットとトランシーバー姿で取材中に、学生たちのゲバ棒隊に危うく捕まりそうになり、急遽、医科歯科大病院の中に逃げ込んだことがあった。

 幸い病院側はこの乱暴な侵入者を受け入れてくれ、病院の窓から見た機動隊と学生たちの「市街戦」を原稿にしてトランシーバーで送ったことがあった。だから安田講堂の過激な戦闘劇は二日とも見ることができなかった。

 高校紛争の現場を取材

 そのころ荒れていたのは大学だけではなかった。全国の高校の中でも進学校として存在感のあった高校では、校則や点数第一主義の教育に反旗を翻した高校生が、学校側に団交を申し入れて激しく対立し、卒業式をボイコットしたり教室にバリケードを築いて立てこもる高校が出てきた。

 そのころ筆者は、警視庁第6方面(池袋署が主幹)から第1方面記者クラブの丸の内署のサツ回りに異動していた。第1方面のサツ回りは、どこの社もサツ回り最後の担当にしており、読売新聞も同じだった。ここを無事に勤めればサツ回りを卒業して一人前の社会部記者として遊軍か中央行政官庁の記者クラブ担当へ昇格するのが通例になっていた。

 第1方面は都心部のど真ん中で千代田、中央、港区が管轄である。大学紛争はこうした管轄にとらわれずに、臨機応変にどこへでも取材に出されたが、高校紛争の場合はなぜか、管轄区域内の高校を持ち場にするように言われていた。そこで筆者は、全国でも先導を切って紛争高校になった都立日比谷高校に取材で日参することになる。

 当時の日比谷高校は、東大合格数で全国のトップを走っているダントツの進学校であり、偏差値と言う言葉も概念もなかったが、優秀な生徒が集まっていた。教室を机や椅子でバリケードを築き、ヘルメットをかぶり時おり万国の労働歌として名高い「インターナショナル」を唄う声も聞こえていた。

 日比谷高校のバリケード封鎖は、同窓会の会合所「如蘭会館」から始まり20人ほどの生徒が中に立てこもっていた。「星陵祭」という学校祭が開かれているときに取材に行くと、国会議事堂が見える校庭の中央では、ジェンカの音楽と踊りの輪が陽気に回転していた。女生徒は明るいカーディガンにミニスカート、男子はセーター姿で踊っていた。模擬店が並び、輪投げや金魚すくいの周辺は若い歓声に包まれている。バリケード封鎖と並行して陽気な喧騒を振りまいた学校祭が開かれている。その光景は強く印象に残った。

 日比谷高校の封鎖は、何度か教師が解除し生徒がまた構築する。これを繰り返し最終的に警官隊が導入されて排除された。学校は休校に入り、卒業式は都内9か所に分かれた分散卒業式だった。その一つに取材に行ったが、無気力、無関心、無感動の「三無卒業式」であり、受験参考書を手にした生徒たちの姿が目立った。

 連載から「高校紛争の記録」として発刊

 1969年10月26日付け読売新聞朝刊で「高校バリケード」のタイトルで、全国の有名高校を主体に吹き荒れていた高校紛争の状況を取材して連載が始まった。大学紛争より少し遅れて始まった紛争であり、大学生の真似事と言う世評もあったが、取材してみると、学校の管理体制、学業の点数主義、生徒の人権無視と言うそれなりの理由があり、それを打破することで自由な学校と生活を取り戻すという主張があった。それなりに説得力があった。

 バリケードや校内デモ、教師たちへの罵詈雑言もあったが、大学生の団交や決起集会に比べるとどこかに、未熟ながらも真摯な取り組みが見えた。バリケードに立てこもり荒れる学校の有様を記事にしてもなんの意味もない。青春期の多感な生徒たちの不満や感情や抗議を引き出し、学校の規制や運営を聞いて生徒たちとの軋轢を表に出していかなければ記事にする意味がない。そう考えて連載を始めたものだった。

 連載を始めると各地の高校教員や父母らから様々な反響があった。特に日比谷高校を担当した筆者には、批判的な言葉はほとんどなく、生徒たちの純粋な思いをよく書いているという好意的な言葉が多かった。

 左の写真はこの連載を改めて書き直して「高校紛争の記録」(中沢道明編、学生社)として刊行した本の表紙である。この本は当時、全国の有名高校で勃発した紛争を読売新聞社会部の5人と西部本社、北海道支社記者各1人の7人で書いた本である。高校生の紛争を一冊にまとめた書籍は他に例がなかったと思う。

 右の写真はその本の裏表紙である。写真説明に【「人間らしい先生、人間らしい教育」を訴える反戦高協のデモ】とある。この本は、今でも高校教育の関係者には参考になると思い本の紹介として掲出した。本質的に高校生の考え方は50年前とさほど変わっていないと思うからだ。

 大学生の運動家とは怖くて論争ができなかったが、高校生の「戦士」とは仲良く話ができた。当時の学生紛争の取材では、今でもいい思い出に残る取材体験だった。部分的な執筆だったが、筆者にとっては生まれて初めて書籍を出した記念すべき本でもあった。

コメント

タイトルとURLをコピーしました