| 貴重な文化財だった日比谷松本楼が炎上する光景をAI(ChatGPT)が創作した。 |
日比谷暴動から衰退する過激派運動
このシリーズは過激派学生運動の報告が続き、読者はうんざりしているかもしれない。3億円事件から都心部のサツ回りに転出してからは、ヘルメットとトランシーバーをたすき掛けにして過激派学生運動の取材に追いまくられる日々が多かった。学生運動は60年安保闘争から大学紛争へと変転し、さらに沖縄返還反対運動へと続き、これを最後に沈静化していった。沖縄返還に反対したのは、返還そのことに反対したわけではなく、米軍駐留の状態が続くことに反対したものであり反戦運動の延長線上にあった。
沖縄協定衆議院特別委員会で自民党が強行採決したのが1971年11月7日である。その翌々日の11月19日、革新陣営は戦後最大規模の抗議集会の日として全国で気勢を上げた。46都道府県883か所、52万6000人を動員する60年安保闘争のピークを上回る規模となった。この大集会は、与野党間の幹部で取り決めていたスケジュールであり、警備当局にもその情報を流して準備させている一大政治セレモニーだった。過激派学生は、この抗議集会に便乗して反対集会と火炎びん闘争を展開する。しかしこの過激な運動もこれをピークにして急速に停滞していった。

取材する光景をAI(ChatGPT)が作成した。実際にはゲバ棒学生のすぐそばで取材することはなかった。「ブル新(ブルジョア新聞)」として袋叩きに会う危険があった。
その日、代々木公園には、全国各地から貸し切りバスや列車で来る人が続々と集まり、午後6時からの「全国統一行動中央大集会」は、主催者発表で27万人に膨れ上がった。筆者は現場に行って圧倒されてしまった。
「沖縄返還協定粉砕、佐藤内閣打倒」などを掲げた社会党と共産党の統一集会であり党の幹部、総評や国労、日教組など大単産労組の幹部が顔を揃え、佐藤政権の強引な国会運営を口々に糾弾する演説が続いていた。集会のプログラムが終わると静かなデモ行進が際限なく続いていった。多くは東京駅周辺で散会となったと記憶している。
一方で日比谷公園は不穏な空気が流れていた。警視庁の調べではその日、中核派などを中心とした過激派学生6千人以上が集結していた。公園を取り囲むようにして機動隊のバスと報道機関の車と覆面パトカーが帯のように連なっていた。そのころ過激派学生は、検問で摘発されることを恐れて、一般人を装って集まった若者が多くなり、学生なのか野次馬なのかにわかには区別がつかない若者たちであふれかえっていた。
日比谷公園の野外音楽堂のステージを囲んで学生たちが埋め尽くしている。ヘルメット、覆面、ゲバ棒で武装した学生たちもいるが、一般の学生と同じような学生も多い。アジ演説を終わったところでインターナショナルの大合唱が始まり、その終了を待っていたように公園から車道に出てデモ行進が始まった。
それを無届けデモとして機動隊が規制をかけると、背後にいた学生からの投石が始まった。間もなく機動隊に向けて火炎びんが飛び交い、あちこちで火の手が上がる。
普段は機動隊の後方に隠れるようにして取材している記者たちも、いまは巻き込まれる危険がある。「逃げろ」という声に急き立てられるようにして筆者たちは日比谷公園内の帝国ホテル側の道路沿いを皇居の方角に向かって走った。周辺にいた若者も走り出しだした。機動隊の一斉規制が始まったのである。
女子学生が投てき用と思われる石を抱え、車道に向かって走ってきた。背後から機動隊が追ってきている。これを見つかると凶器準備集合罪で逮捕される。筆者は思わず走りながら「石を捨てろ!」と怒鳴った。女子学生が抱えていた石を捨てた。ほぼ同時に機動隊に捕捉され、泣き叫ぶ声が背後でしていた。
火炎びんがさく裂してあちこちで火の手が上がっている。投石が思わぬところから降ってくる。日比谷交差点の有楽町に向かったあたりで、過激派学生の一団が暴れているのが見えた。ビルの一階に面しているガラス窓をことごとく打ち壊している風景が見える。路上の車がひっくり返され火炎びんを浴びている。機動隊がガス銃を発射している。市街戦のような光景を記者たちは、かたずをのんで眺めているよりなかった。
背後で何か不穏な気配があって振り向くと、火炎が上がっている。火炎びんかと思ったが炎はまたたく間に天に向かって勢いを増していく。そのとき社のデスクから無線で「放火したらしいぞ」という情報が入る。機動隊の無線に入ってくる情報を聞いていると「松本楼が放火されたらしい」と言う。居合わせた記者は、今度は反対方向の松本楼に向かって走った。遠目でみた松本楼は、燃え盛る炎の中で黒い影を残して間もなく消え去ろうとしていた。
この日逮捕された学生は、1785人でその大半が日比谷公園の周辺で逮捕されている。そのうち女性が286人いた。閉店中の松本楼には、数十人の学生が乱入し、モルタル3階建て1500平米をまたたく間に焼き尽くし、近くの日比谷花壇にも放火して逃げ去った。殺傷力の強い鉄パイプ爆弾二個が機動隊に向かって投げられたが、いずれも不発に終わった。警視庁はこれを重視し、過激派学生の拠点を徹底的に摘発する捜査隊を設置する。
午後10時を過ぎてもまだ日比谷界隈は、不穏な気配を残しており、盾を手にしたおびただしい機動隊とパトカーは動く気配がなかった。筆者の無線機に社のデスクから「社にあがってこい」と言ってきた。炎上した松本楼の原稿を書けと言う。
銀座3丁目にあった社にあがると、資料部から松本楼の歴史や故事来歴の資料が待ち構えていた。締め切り時間を気にしながらその歴史を足早に読んでいくと、知らないことばかり書いたある。そのとき初めて、歴史的に由緒ある建造物が火炎のなかで消滅したことを知った。
フランスの建築様式をしたレストランだった
日本で初めての洋式公園として明治36(1903)年に誕生した日比谷公園と共に松本楼もオープンした。フランスの建築家フランソワ・サンマールが考案したしゃれた寄棟屋根をした三階建てのレストランだった。当時、ハイカラ好きの紳士・淑女が松本楼でカレーライスを食べてコーヒーを飲むことが大流行した。また詩人や芸術家が集まる事でも有名になり、夏目漱石や高村光太郎らもよく足を運んだといわれている。
日比谷公園は、政治の大きな集まりの会場としても使われるようになり、松本楼のバルコニーから憲政擁護の大演説会が行われている写真も残っていた。松本楼を歴史的に名を残したもうひとつの出来事は、中国の辛亥革命のリーダーだった孫文が日本に亡命していた時期、松本楼をしばしば訪れ経営者の梅屋庄吉の知遇を受けていたという史実だった。孫文は妻の宋慶齢と梅屋邸に投宿し、犬養毅、尾崎行雄らをはじめ、日本の政治家、財界人、法学者、思想家などと広く交遊関係を結び、中国に帰国後に革命を成就させて1912年1月1日に南京に中華民国を建設した。
このような史実に彩られた歴史的建造物が、過激派学生の暴挙によって一瞬のうちに失ったことを簡潔に記述した原稿を仕上げ、まとめを書いているベテランの遊軍記者に提稿して筆者は再び夜の街頭へと踏み出していった。


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