辻本芳雄さんと筆者との関わり
脳研究とライフサイエンス(生命科学)の最先端シリーズの長期連載を中澤デスクに下命した辻本芳雄・編集総務(編集局長代理クラス)とはどのような方だったのか。筆者は読売新聞入社が内定した1964年の秋から、関りがあった方だった。
「人間この不可思議なもの」というタイトルで、先端科学研究を長期掲載するという発想は、辻本さんが先導して実現したものなので、この方のことを書きたい。
辻本さんには入社前から、文部省統計数理研究所にバイト待遇で派遣され、選挙予想を統計的に処理する手法を学ばせてもらった(<第18話>)。筆者が入社して配属されたのは、社長直属の「総合科学技術委員会事務局」という部署で、辻本さんはそこの事務局長だった。
世に出てまだ間もない電子計算機(コンピュータ)の世界と国内の開発状況を調べるのが、主な仕事だったが、当時、電子計算機はどこの新聞社も導入していなかった。筆者が大学の卒論で電子計算機を応用した数値計算をやった体験から、このような部署に回されたと思う。社から配布された名刺には「読売新聞記者」とあり、所属には、総合科学技術委員会とだけ印刷されていた。毎月、記者手当を支給されたが、原稿を書くことはなかった。
辻本さんは、2年足らずで社会部長に昇格し、代わって「週刊読売」編集部長だった山崎英祐さん(元社会部次長)が事務局長になった。山崎さんは、日本テレビで始まった「イレブンPM」という深夜番組の初代キャスターを務めた方で、辻本さん同様、温和で偉ぶらない方だった。
辻本さんを引っ張り上げた原四郎社会部長
辻本さんは、高等小学校を卒業後、大阪の読売新聞支局でバイトをしていた。「わしは中卒や。新聞は中卒でも分かるように書かねばあかんのや」とよく語っていた。バイト先で見よう見まねで原稿の書き方を覚え、あっという間に一人前の記者になった。大阪から東京に送った原稿を読んだ当時の原四郎社会部デスクが、その才能を認めてすぐに東京本社社会部に引っ張り上げた。社会部長になった原さんは、30歳の辻本さんをデスク(社会部次長)に昇格させた。
昔は、学歴とか入社歴とかは関係なく、能力に応じて使ってくれたのだろう。そこから辻本さんの力量が開花する。
「ついに太陽をとらえた」を担当
辻本さんの筆致は、実に柔らかく人の感性に入り込むような表現が多い。筆者は、辻本さんから頂いた著書「夕刊小僧」(1952年、鱒書房)を読んだときの感動が、今でも残っている。戦後間もない混沌とした上野駅界隈の闇市・浮浪者・愚連隊の中で生きている人物像を、新聞記者の目で活写したルポ風の物語であり、人情物語でもあった。

辻本さんから謹呈され、大事にしていたはずの本が終活整理の際に誤って廃棄したらしい。ネットで探したところ、やっと見つけて取り寄せた。懐かしさで思わず抱きしめた。読み直して辻本さんの描写力に、改めて舌を巻いた。
核融合を想起させるタイトルで連載
辻本さんはその一方で核分裂・核融合という極め付きの核物理学の基本を取材し、文献を読み解いて、あろうことか社会面で連載をする記者でもあった。
1954年1月1日の社会面のトップで書き始めた「ついに太陽をとらえた」という連載は、画期的だった。太陽は核融合を永遠に続ける天体である。そこからヒントを得て付けたタイトルだろう。いかにも辻本さんらしい発想だった。
連載の第1回目は、「私はウラニウムである」という書き出しで、読者を引きずり込み、平易な語り口で原子核の話を展開していく。原子核は分裂しても融合しても巨大なエネルギーを発出する。原爆と水爆はその原理を利用した兵器だが、おりしも世界的に原子力の平和利用の機運が高まってきた時期だった。ただ日本では、広島・長崎の原爆被災の記憶が色濃く残っていたころだった。
その時期に核分裂・核融合反応などの理屈を平易に解説し、1か月にわたって社会面で原子力平和利用への道筋を示した連載だった。辻本さんはまだ科学部がなかった時代、社会部に所属する科学記者だったのだ。

連載と同名の「ついに太陽をとらえた」(読売新聞社)は刊行後、ベストセラーになった。
第五福竜丸の被災を大々的に報道
その連載終了から2か月後の同年3月16日、読売新聞朝刊に衝撃的なニュースが掲載された。
「邦人漁夫、ビキニ原爆実験に遭遇」
「23名が原子病 1名は東大で重症と診断」
太平洋のビキニ環礁での米軍の水爆実験で、放射能の降灰をかぶったマグロ漁船・第五福竜丸の乗組員たちの被災状況をスクープしたもので、このニュースは世界中を駆け巡った。その時の社会部デスクが辻本さんであり、「死の灰」という村尾清一記者の造語を前面に出し、社会面の3分の2を占める報道は、世紀のスクープとしていまでも語り継がれている。
「昭和史の天皇」を執筆しながら「人間・・・」を主導
「人間この不可思議なもの」は、昭和史の天皇が始まってから出てきた企画案だが、当時、編集局次長だった辻本さんが主宰して、人間の根本的な存在感を問う企画をするため、文化部長、論説委員、中澤デスクが集まって討論したという。その結果、辻本さんの主導で自然科学から人間の根幹へアプローチする企画案になり、中澤デスクが担当することになった。
「昭和史の天皇」は、先の大戦から終戦に至るまでの出来事を元皇族、旧軍人、兵士、市民まで数千人から取材記者がインタビューしたものをもとに、辻本さんがリライトして執筆していったもので、連載中の1968年に菊池寛賞を受賞した。
連載は延々と続き、1975年10月1日の2,795回をもって終了した。8年10か月にわたって新聞に毎日連載した企画ものは、今後は出現しないだろう。この連載は全31巻として刊行され、文庫本にもなっている。

菊池寛賞を受賞した「昭和史の天皇」は、8年10か月に及ぶ長期連載であり全31巻が刊行されている。新聞の連載としては空前絶後のことであり、これを最後まで辻本さんがひとりでまとめ上げたものだった。歴史的証言と昭和天皇の位置づけ、戦争責任を語るうえでも必読の文献であり、未来永劫残る書籍だろう。
辻本さんと至近距離で執筆した日々
中澤デスクと筆者が「人間この不可思議なもの」を執筆していた部屋は、当時、銀座1丁目にあった本社4階(だったと思う)の編集委員室だった。その一角に辻本さんが座り、終日、「昭和史の天皇」を執筆していた。取材記者がインタビューして書いた内容を精査し、録音してきたテープを聞きなおし、原稿用紙に書き込んでいく姿は近寄りがたいものがあった。
ときたまランチに誘われて中澤デスクと一緒に外へ出たことがあったが、話はよく「ついに太陽をとらえた」の話題になった。そのとき世話になった中村誠太郎・東大助教授から核物理学の話を聞いたとき、何も知らないでとんちんかんな質問を連発した話を、大阪弁で面白おかしく語ってくれた。そんなとき「(新聞記者は)ほんまに、アホらし」と言って笑わせた。「アホらし」という言葉が辻本さんの口癖だった。
定年退職後2か月足らずで死去
歴史的連載に取り組んでいる辻本さんのすぐ近くで筆者らは、必死になって「人間この不可思議なもの」の執筆に取り組んだ。ゲラが出てくるとまず、辻本さんの執筆を邪魔しないように、デスクの脇の積み上げてあった書籍の上に置いてきた。
「昭和史の天皇」を書きあげた辻本さんは、1976年に社史編集室長(局長待遇)に異動した。そして77年11月に定年退職して読売新聞社社友となった。そのころ、筆者は北海道支社編集部に所属して札幌を拠点に活動していた。
辻本さんは退職して間もない78年1月16日、脳出血で倒れそのまま帰らぬ人となった。57歳だった。歴史的連載を書きあげ、自らの使命に終止符を打つように去っていったのだ。「昭和史の天皇」の一冊を胸に抱きかかえて棺に収まり、後輩記者らに運ばれて出棺した様子を電話で同僚記者から聞いた筆者は、胸に突き上げるものをこらえ、しばらく動けなかった。私事にわたる話だが、辻本さんご夫妻は筆者の結婚式の仲人でもあった。

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