人間の思索・行動のすべてに司令を発している神経細胞とはどういうものなのか。神経細胞を脳細胞と呼ばれていた時期もあるが、ここでは医学的に定着している神経細胞と呼ぶことにする。脳にはこのほかにグリア細胞が同じくらいあり、神経細胞のサポート役をしていると理解されている。神経細胞とグリア細胞を合わせて脳細胞と呼ぶこともある。
さて、この企画を展開していた筆者は、神経細胞とはどのような細胞を言うのか知りたくて、神経の形態学者である東京医科歯科大(現東京科学大)医学部の万年甫・教授を訪ねて行った。教授は、枯れ枝のような姿をした顕微鏡写真を見せて説明を始めた。初めて見る異様な細胞の姿にびっくりした。中心の細胞本体には遺伝子DNAを格納した細胞核もある。このようにヒゲを伸ばした細胞は、人体の他の臓器にはない。

万年教授は、神経細胞を色素で染め、厚さ10ミクロン(100分の1ミリ)程度の薄片に切り、これを1枚づつ連続して観察しながら1個の神経細胞の全貌を再現して立体模型にした。それを見せられるとまさに枯れ枝そのものであった。

神経細胞の顕微鏡連続撮影写真を標本に作り、それを観察しながらつなぎ合わせて1個の神経細胞の全貌を立体的に作ることに取り組みついに実現した。標本を見せる万年教授(筆者撮影)
情報通信網の拠点が神経細胞
解剖して脳をむき出しにすると、白いコンニャクのようなものだという。その脳は神経細胞とグリア細胞がほぼ同数で占められており、人間の動作・言語・意識・思索などあらゆる情報を瞬時に受信・発信している。
「神経細胞が他の細胞と違うのは、情報を発信する軸索というやや太くて長いヒゲと、他の神経細胞からの電気情報を受信する樹状突起という短いヒゲを持ち、それが神経細胞同士で絡み合っているのです」
軸索は長いもので1メートルもある。脳内のある場所から、体内のどこかの場所まで1本で続いている。ヒゲを伸ばし、絡み合っている神経細胞は一体何をしているのか。神経細胞の情報とは何か。
このシリーズで取材を進めていくと、例えば食欲・性欲など本能の一種とか、味覚・触覚・嗅覚・視覚・聴覚なども、発信源はそれぞれの末端にあるが、それを受信して確かな感覚情報として理解するのは脳であることが分かってきたという。

取材したそのすべてをここで紹介するのはできないが、連載終了後に1冊にまとめて刊行し、ベストセラーになった本がある。今でも古本で購入は可能だが、多くの知見は進展しているので古びた情報本になっている。しかし基本的には変わっていない部分が多いので、その基本的な部分と現代の知見を比較しながらこのシリーズで紹介することにした。
神経細胞のヒゲが絡まない理由
神経細胞の本体から伸びている軸索と呼ばれる1本の情報発信ヒゲと樹状突起と呼ばれる情報受信ヒゲは、多数の神経細胞と絡み合って脳全体を形成している。神経細胞の数は約860億個。それが脳内に配置され、その周囲には神経細胞をサポートするグリア細胞がほぼ同数の約860億個ある。
電子顕微鏡の発展によって、絡み合っている神経細胞のヒゲの絡み具合を詳細に観察すると、実際はヒゲは絡まない(くっつかない)で隙間を作っていた。隙間と言っても10万分の1ミリ程度である。この隙間のところを「シナプス」と呼んでいる。
くっついていないシナプスで、情報(つまり電気信号)がなぜ伝わるのか。電気信号が来るとその隙間に樹状突起の末端から化学物質が放出されて隙間を埋めてくっつき、情報が伝わるようになる。その化学物質を「神経伝達物質」と呼び、おびただしくある。例えばセロトニンとかドーパミンなど最近、何かと話題に出てくる物質もこの神経伝達物質であり、シナプスに介在して神経細胞が働くようにしている。落ち込んだり不安になるとセロトニンが足りないとか、快感や達成感を感じるとドーパミンが出ているとかいうのは、ここから来ているようだ。
一瞬で末端から脳まで届く情報網
お菓子を口に入れて甘いと感じるのは舌であるが、舌にある味覚細胞から情報を脳まで送って甘いと感じるまでは一瞬の時間差しかない。甘いと感じるのは舌ではなく脳だという。
慶応義塾大学医学部長だった塚田裕三先生を訪ねて行くと「人間の活動は超巨大な化学工場の営みであり、途方もない速さで判断し、指令を出し、応対している。その仕掛けの何億分の1程度しかまだ解明されていない」と語っていた。人間の心理のあや、心の動きは、脳内のアンモニアという俗な物質の増減と密接に関わっているという研究を聞きに行った時の話だった。
ネコの動物実験が世界の標準だった
当時の脳の研究で実験の対象になった動物はネコだった。今では、ネコは使っていないようだが、当時、研究者に聞いた話では、ネコは雑種が世界中に広がっているので、どこのネコも同じ脳のサイズと機能になっているという。だから大脳生理学の基礎研究では、世界中でネコが使われ、ネコの脳内機能地図まで出来上がっていた。
ネコにとってははなはだ迷惑な話であり、動物愛護の観点から今は使われなくなり、マウスの実験や脳オルガノイド(ヒト幹細胞から数ヶ月かけて培養し、神経細胞や脳の複雑なネットワーク構造を自己組織化させる技術)などに移ってきているようだ。
人体実験の脳地図もあった
戦前の話だが、人間の脳内のどこに何が記憶されているか調べた記録があった。この資料は時実先生から提供されたもので、脳の機能が体の動きと正確に対応しているという一例の図である。

上の図が大脳の記憶のポイントである。下の表は、そのポイントを微弱な電気で刺激した時に見た風景や思い出のシーンである。大脳は、記憶する位置まで決まっているようだ。

1952年カナダの脳外科学者のW・ペンフィールドは、てんかんの患者の脳手術のとき、大脳皮質のいろいろな場所を微弱な電気で刺激して、患者が語った体験を記録した。例えば言語中枢部を刺激したとき、意味のない声を出したり、発生しているときに刺激を止めると発生を止めたという。
このような生体実験は、人間しかもっていない言葉、創造、思考などを調べる際に人間自身が実験台になっていた。ただしあくまでも病気の手術に限ってやったことで、今はできない。脳内には知覚がないので痛みはなく、こうした実験では患者と医師が会話をしながらできたという。


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