ホンダが画期的な軽乗用車を開発
性能のいいオートバイを次々と世に出し、世間の評判が良かったホンダがその技術を生かし、四輪の軽四輪車を開発して軽自動車ブームを起こした。N360という車で、Nは「norimono」のNだという。
最高速度100kmを出し、当時、ライバル車の多くが 25馬力程度だったがN360は31馬力で高回転、高出力を主張してブームを作った。価格が31万余円でライバル車よりも5万円くらい安かったからホンダの独走態勢になっていった。

出典:Nの原点 N360|軽自動車Nシリーズ|Honda公式サイト
相次ぐ事故は欠陥車だと主張
ところが高性能が売り物だったN360が、様々な事故を起こしていく。スピードの出し過ぎによる運転操作のミスなども指摘され、他の乗用車の事故と何が違うのかがよくわからないまま、メディアからはホンダ側に不利になるような報道が目立ったように思う。
アメリカでも車の事故と性能、安全性などを巡る消費者運動が勃発し、ラルフ・ネーダー消費者運動家が、世界の消費者運動のリーダーともてはやされるようになってきた。
そのような風潮のなかで、N360欠陥車騒動になる。日本の消費者運動の先駆けとなった日本自動車ユーザーユニオン(以下、ユーザーユニオン)が「N360は安全性をおろそかにしている」との主張を展開する。1970年8月、ユーザーユニオンは、ホンダの本田宗一郎社長を東京地検特捜部に未必の故意による殺人罪で告訴した。
この告訴を受けて東京地検は、技術鑑定をしたり事故態様の個別分析を行った結果、車両の構造と死亡事故との因果関係を、刑事責任レベルで立証できないとして不起訴(嫌疑不十分) とした。
国会論戦を取材
ユーザーユニオンは、N360に関連する交通死亡事故の遺族に代わって告訴したもので、欠陥車と分かっていながら販売を続けたと主張して、未必の故意による殺人罪を激しく主張していた。筆者は直接、これを取材する機会はなかったが、「ホンダの軽はスピードが出て危ないから運転未熟者はやめた方がいい」という評判はよく聞いた。筆者はそのころN360に乗りたかったが、我慢してスバル360に乗っていた。
何かの用事で社に上がった際、ベテラン遊軍記者に呼び止められ「ヒマならこれから国会に取材に行ってくれ」と言う下命だった。国会と聞いてびっくりしたが、これも体験と思って引き受けた。
議事堂に入るのは入社研修の見学だけだったので、右も左も分からない。ともかくも入ってから、何かと衛視に聞いて助けられた。こちらは襟元に国会記者バッチを付けているが、立ち居振る舞いから新米と分かるので、記者の立場に立って実に丁寧に教えてくれた。取材は、個別の事故内容について議員が当局に質問したり、運輸省の自動車安全規定に関する質問や、警察庁の交通事故と安全対策に関するものであり、非常に勉強になった。質問者と政府当局のやり取りをできるだけ詳しく原稿にして送って来いという指示だった。
国会議事堂内には電話ボックスがあった
原稿を送る段になって初めて気が付いたが、議事堂内には街角にある電話ボックスと同じものが要所に設置されていることだった。議事堂内は広かった。それをきっかけに、何かと国会関係の取材依頼が、遊軍やデスクから来るようになる。
筆者は、丸の内警察拠点の警視庁第1方面記者クラブのサツ回りだったので、国会はいわば持ち場になっていたからだった。社会部からは国会担当の記者が常時国会内外で活動していたはずだが、国会は遊軍の長老格が担当者になっているので、何かと依頼しにくかったのだろう。
ひところは、国会バッチを常に持ち歩いているくらい頻繁に仕事が舞い込んだ。そのころ、公害問題が新しい社会問題として脚光を浴びて、たびたび国会でも論戦になっていた。さらに薬害問題も出てきており、国会論戦は社会部でも欠かせない取材現場になっていった。
沖縄国会の一端を垣間見る
この体験で筆者が最も勉強になったのは、沖縄国会だった。政治問題と国会の動向は、もともと政治部記者の持ち場であり、社会部は社会面で扱うような事件・事故に関連する国会での質疑に関することが多かった。
沖縄に関心が向いたのは中澤道明・社会部デスクの影響があった。中澤さんは、ベトナム戦争時の特派員としてハノイなどに駐在し、帰国後は返還前の沖縄特派員として勤務した体験がある。第10話で触れた「高校バリケード」を連載したときのデスクでもあったので、よく話をする機会があった。
その折々、沖縄県民は太平洋戦争で唯一、米軍と市街戦を戦った国民であり、施政権を米軍に握られていまなお悲惨な生活を余儀なくされていることを語った。その沖縄が返還されてくるとして日米交渉が続いているが、中身がよくわからないという話だった。中澤さんは、日米政府が国民に不都合なことを密約でもしていたら、100年の禍根を残すということを語っていることが気になっていた。

このような委員会室での質疑を取材することが多かった。出典:衆議院トップページ
院内を佐藤栄作総理が移動する場面を何度か目撃した。政治部の番記者たちが取り囲むようにして立ち話をする光景もあった。佐藤政権は、沖縄復帰交渉でアメリカのニクソン大統領と会談し、核抜き本土並みで返還することで進んでいるような話だった。後年、日米間には返還に関する密約があり、アメリカ側はその全貌を公文書の公開などで明らかにしているが、日本政府はいまだに密約の存在を否定している。
この件は、2022年の沖縄返還から50年の節目に筆者は「沖縄返還と密使・密約外交 宰相佐藤栄作、最後の一年」(日本評論社)を上梓して密約のすべてを論評したが、奇しくも社会部サツ回り時代に国会に出入りしていた当時、佐藤・ニクソンは密約を交わしていたのだった。これはまた別の話になるので、後日の一代記で報告したい。
ユザーユニオンの恐喝事件に発展
日本の消費者運動の先駆けとなったユーザーユニオンだったが、ユーザーユニオン側が示談交渉の際に高額な支払いを求めたり、示談交渉が恐喝に近いものになっているとの非難も出てきた。その後、ユーザーユニオン幹部2名が恐喝・恐喝未遂の容疑で逮捕・起訴された。
この件は取材する機会がなかったので、ネットだけの情報になるので詳細はここでは書けない。1審では有罪、控訴審で一部無罪という判断が出るなど裁判は長期化し、最終的に1987年に判決が確定したという。ただこの事件を機に、日本の自動車安全基準と消費者保護制度が大きく前進したことは間違いなく、その後のリコール制度の導入などにつながった。


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