<第29話>50年後に花開いた網膜の研究

記者馬場錬成一代記

 末期がんで取材に応じた本川学長

 今から約50年前の先端研究を取材したことを書いているが、回顧録を書きながら当時の日本の研究者のレベルの高さを再認識する機会となった。その中でも忘れられないのは、本川弘一東北大学学長(医学部生理学教授)の取材だった。「人間この不可思議なもの」の連載は、1971年1月17日から始まったものだが、取材は前年の秋から始めていた。週一回の1ページ特集だから、先行した取材をし、原稿をある程度書き溜めておかないと間に合わない。

 年末のあわただしい時期だった。後で知ったことだが学長はそのころ、がんの末期症状で学長室に出てくるのも難しい時期だった。それを知らないで取材申し入れをしたところ、学長秘書から1時間以内を厳守するならという「条件付きで」、1970年12月5日に取材が実現した。

 学長の研究テーマは、眼底に広がる網膜の視神経細胞の基礎研究だが、時実先生の評価では、世界の先端を走っているという。基礎研究だが動物実験と人間を使ったもので、頭の皮膚に多数の電極を貼りつけ、網膜と脳内の電気的変化をとらえてその波形を解析していた。

 カメラのフィルムの役をする網膜

 網膜とは眼球の内側に広がっている薄い神経膜であり、カメラのフィルムの役割をしている。光や色を感じて電気信号に変換し、脳に伝えている組織と考えられていた。それから50年を経て網膜の驚くような役割が分かり、さらにiPS細胞の作成から人工網膜を再生し、病気を治すことを世界で初めて日本人研究者の貢献によって実現した。それを大急ぎで紹介する。

 眼で見た形は網膜でも認識している

 本川学長が研究していた当時の網膜は、眼の光の受容器であり、何か形のあるものを見せると、途端に脳波を出す組織だった。それまでは、眼で見た形や色を電気信号として脳に送り、そこで見たことを認識していると考えられていた。しかし学長が様々な実験で調べてみると、電気信号は脳から発せられているのではなく、網膜から発生していることを発見した。不思議な波形と言う意味で「X波」と命名し、1943年に英文の論文で発表した。これは大発見だが、欧米の研究者からの反応はなかった。

 その後の研究でこの波は、網膜から発せられた電気信号であり、網膜である程度の形や色を識別して電気信号で脳に送り、脳はそれをもとに形と色を明確に認識していることを発見した。X波については、イギリスの電気生理学者で1932年のノーベル賞受賞者のE・エイドリアンが大分後になってからだが、「X波はあなたが先に見つけたことを論文で知った」とわざわざ手紙を送ってきたという。

 網膜は脳の一部を担う枠割

 網膜の役割は電気信号を脳に伝えるだけの単純な役割ではなく、網膜の中で情報の選択や判断を行い、小さな脳のような役割をしていることが分かってきた。つまり重要な情報は強調し、動きや変化を優先し予測に近い処理をするとされている。脳の一部という見方も出ているという。朝の光を浴びて目が覚めたり、夜、ベッドの中でスマホを見ていて眠れなくなったりするのは網膜の仕業(役割)とされている。つまり光は情報伝達だけでなく、身体を動かすスイッチの役割もしていることになる。

 iPS細胞から網膜を作る

 山中伸弥博士が2012年にノーベル生理学医学賞を受賞したiPS細胞から、人工的に網膜を作成できるようになって、網膜に関する病気の治療に、にわかに明るい兆しが見えてきた。

 iPS細胞から世界で初めて網膜を再生して移植に成功した高橋政代博士(元理科学研究所発生・再生科学総合研究センター網膜再生医療研究チーム・チームリーダー)は、2014年に網膜移植に成功して「失明は治らない」という常識を変えた。これをきっかっけに、網膜を再生する医療、壊れた機能を修復する遺伝子治療、人工網膜で視覚を補填する医療が実現することになり、失明は回復できる疾患へと希望が出てきた。

 ノーベル賞に近づいた網膜移植

 高橋政代博士がiPS細胞から再生した網膜の移植は、世界で初めての成功事例であり、国際的に高い評価を受けている。臨床医学でノーベル生理学医学賞は、なかなか受賞できないが、iPS細胞の実用化の扉を開いた業績は、今後変わることない評価として定着するだろう。欧米の研究者も網膜の機能について基礎研究を深めているが、日本は iPS細胞から人工的に作成した網膜を活用して医療で貢献する臨床応用に力を入れている。欧米と日本の研究領域が互いにカバーし合い、相乗効果を発揮しているいい事例となっている。

 高橋政代博士(理研を退職後は、ビジョンケア社長に就任)は、「神経は再生しない」と言う常識を覆したことになり、実際に治療で機能改善例を出しているので、ノーベル賞級の業績として国際的にも高く評価されている。再生医療で基礎研究の成果を臨床に応用した業績でノーベル生理学医学賞を授与される可能性は高いと筆者はみている。

 こうした業績も、50年余前に基礎研究で開拓した本川博士の実績が大きく貢献している。この分野の先駆けとして本川博士の仕事は学術的功績として残るだろう。博士は、筆者が取材してから二ヶ月後の1971年2月3日、がんで死去した。取材は1時間以内と秘書から言い渡されていたが、学長との取材は1時間を超えても続き、秘書が何度も学長室の扉を開けて、それとなく打ち切りを促した。筆者は遠慮したい気持ちがあったが、学長の話はますます熱を帯び、際限なく話が続いた。2時間を超えるあたりで秘書がたまりかねて入室してきて終了を告げてきた。

 取材後の別れ際、博士は「学長にされてから実験も研究も出来なくなりましてね」と嘆き、研究課題が山積していることに思いを馳せるように「日暮れて道遠しと言う気持ちです」と語った言葉は今でも思い出す。本川学長の東北大学葬は同年2月13日に行われた。

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 「人間この不可思議なもの」の連載テーマと取材者

 1971年1月から始めた大型連載企画は、前年の秋から準備を進め、1972年10月に終了した。丸々1年間、この企画に中澤道明・社会部デスクと2人だけで取り組んだものだった。途中で何度か辻本芳雄編集局総務に感想を求めたが「よーやっとるなあ」と肯定的な言葉しか発しなかった。もっぱら自ら執筆中の長期連載「昭和史の天皇」の話が多く、その企画にどっぷりと浸かっている様子だった。

 「人間この不可思議なもの」は第1部が「人間をあやつる脳の研究最前線」を取材し、第2部は「生命をあやつる遺伝子と分子のふるまい」と決まっていた。

 デスクの書きぶりを真似して一人前に育つ

 第2話は、7月中頃の夏の暑い日から入ったが、5月の連休明けから本格的な取材が始まり、一時期、脳の研究と遺伝子の研究の両方を同時に進めているため、混乱することがあった。しかし中澤デスクは常に冷静だった。いつでも書物を離さず広げている方で、日に2回はお茶やランチを共にして連載の話を詰めていった。

 むろん、中澤デスクも原稿を書く。当時、編集局の主要部のデスクで、連載物を抱えて書いているデスクは中澤さんだけだったろう。筆者の未熟な原稿でも中澤デスクが手を入れてくれる。そんな繰り返しをするうち、徐々に筆者も腕を上げていったものか、直しが少なくなっていった。と言うよりも、中澤デスクの書きぶりを真似しているうち、徐々に一人前に育っていく。職人の世界と同じことだった。

 まだ梅雨時だったように記憶する。雨の中を中澤デスクと歩いているときやおら、デスクはアタッシュケースを開けて本を取りだして筆者に渡してきた。「次のテーマはこれだからね。読んでおいてね」と言った。それは歴史に残る「二重らせん DNAの構造を発見した科学者の記録」(江上不二夫、中村桂子訳、タイムライフ・ブックス)であり、ジェームス・ワトソンの本だった。

 筆者は帰宅してすぐ広げたが止まらなくなり、徹夜で読み上げてしまった。この本は間違いなく名著であり、歴史に残る科学文献である。今でも講談社の文庫本などになっており、書店の棚に並んでいる。時実先生の「人間であること」(岩波新書)と並ぶ不朽の名著であり、筆者を科学記者として確かなものへと導いた人生の書物でもあった。

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