<第28話>「脳の神殿」に迫る

記者馬場錬成一代記

 後半に利根川進先生の記憶を追跡した、画期的な業績を紹介しています。

 脳の中の脳とはどこか

 ミミズだって、どの方向に行けばいいか悪いか。そのくらいの判断をしているという。「脳らしいもの」があるらしい。人間は日々、記憶と判断の積み重ねで生きている。その記憶・判断はどこがやっているのか。時実先生の話の中に「前頭葉」と言う言葉が頻繁に出てくるようになった。「脳の神殿」と言う言葉は、中澤デスクが言い出した言葉だったような気がする。前頭葉こそ脳の神殿ではないか。

 人間が他の動物を違うところは、「考えること」、「記憶すること」、「判断すること」ではないか。それをやっているのが前頭葉だという事実は、意外なことから判明した。

 ロボトミーと言う外科手術

 凶暴なチンパンジーの前頭葉部分を破壊すると性格が大人しくなり、知能の低下もなく日常生活に変わりがなくなる。ポルトガルの神経学者エガス・モニスは、これをヒントに、鉄格子のある病棟にいた凶暴性のある精神病患者の手術に応用した。患者のこみかめの上部に穴をあけ、そこから前頭葉にメスを入れ、前頭葉とほかの脳の部分を結ぶ神経線維を切った。血管はそのままだから危険はない。

 効果は劇的だった。鉄格子の病院に押し込められていた凶暴な患者は、突然、温和な性格になり、知能の低下もなく日常生活にも問題なくなった。ロボトミー(lobotomy)と名付けられたこの手術は世界中に広がり、モニスは1949年、ノーベル生理学・医学賞を受賞した。日本では、ヒロポン中毒の患者にこれを行った。ヒロポンとは覚せい剤のことで違法物質であり、今もときおり摘発されている。

 前頭葉部分を切り離すと性格が温和になり、知能の低下もないし、日常生活も問題ない。ところが生活は、のんきでその場限りのことしかやらない。明日やることも将来の計画も考えなくなった。自主的、自発的に意見を言うこともなくなった。人間らしい人格がなくなってしまったのだ。前頭葉の働きを減退させ、人間らしい考えと判断を絶ってしまったロボトミーの副作用である。

 間もなく世界中でロボトミーは禁止された。ノーベル賞3大誤りの一つとなっている。この件は、後日(と言ってもだいぶ先になるが)改めて報告したい。

 前頭葉が人間らしさをつくっている

 前頭葉の位置と働きをまとめたのが、次の画像である。前頭葉は動物の中でも人間が最も発達しており、ネコや犬は、見た目も小さく見える。ミミズには前頭葉はない。

 サルと犬の実験を取材する

 愛知県犬山市の京都大学霊長類研究所の久保田競・助教授に取材にいった。そこで「世界初の前頭葉の生理学的研究」が行われていた。実験動物はインド産のアカゲザルだ。ネコ、ウサギ、マウスなどよりも、ずっと前頭葉が発達しているからだ。

 サルに左右2つのレバーを正しく押すと、甘いジュースが出てくる装置で特訓した。さらに左右どちらかのレバーに、板が下りてきて押せない状況を作った。タイミングよく板が上がったとき左右押さないとジュースが出てこない。サルは焦った。サルの行動を観察していれば分かる。しかし5秒後に板が上がり、まんまとジュースにありついた。これを繰り返すと5秒間を待つようになった。待つ時間を徐々に延長していったが、1分30秒が最長の待ち時間だった。

 外国で同じ実験をチンパンジーにやった記録がある。こちらは5分間以上も待ち時間があるのに、ちゃんとジュースにありつけたという。先を見通す知恵は、チンパンジーの方がかなり上だ。

 久保田助教授は、実験のとき、サルの前頭葉の神経細胞とサルの腕の筋肉に指令を発信する大脳の運動野などの神経細胞に微小電極を差し込み、活動を調べた。いずれもサルの行動と同期して神経細胞の電気信号が発信されていた。記憶の神経細胞は、前頭葉にあるのだ。

 犬だってペダル押しでエサを食べる

 大阪大学医学部生理学の吉井直三教授に取材に行くと、犬にメダルを押すとエサをもらえる実験装置を使って、犬の前頭葉の活動を調べていた。この訓練をすると、犬は腹が減ると自分でペダルを押し、出てきたエサを食べるようになった。(写真は吉井直三教授提供)

 腹が減ったらペダルを押してエサを食べる。たったこれだけの考えと動作だがすべて脳がコントロールしていることが分かったのは、神経細胞の働きによって行動を起こしているのだ。しかし当時は、学習と記憶の仕掛けは、脳全体の仕事としてのとらえ方であり、脳のどの部分が関与しているか実証的には分からなかった。

 人体実験で分かった脳の記憶地図 

 この図は、時実先生から提供されたカナダの脳外科学者、W・ペンフィールド博士の作成した図である。様々な文献でも紹介されているので、見た人はいると思う。脳をむき出しにした手術をしながら、患者と会話をしながら記録したもので、記憶は脳に記銘されていることがはっきり分かった歴史的な図である。

上にある脳の位置を微小電極で刺激すると、場所(番号1~45)によってさまざまな記憶がよみがえった。患者が語った位置(番号)による記憶が下の表である。

 このように記憶は、神経細胞がぎっしり詰まった脳に格納されていることが分かった。しかし、どのような仕組みで記憶が保持し、どのようなときに思い出すのかまでは分からなかった。だから脳の神殿と呼んでいた。

 近代科学はいま、神殿の扉を開こうとしている。その最前線を紹介したい。

 最新脳研究の成果で分かったこと

 1987年に「多様な抗体を生成する遺伝的原理の解明」で、日本人初のノーベル生理学・医学賞を受賞した利根川進・MIT(マサチューセッツ工科大学)教授は、エングラム(記憶細胞群)の研究に取り組み、神経活動に応じて発現する遺伝子を利用して記憶に関与する神経細胞群を特定し、その活動を操作することに成功した。これは記憶の実体に迫る画期的な成果であり、ノーベル賞2回目の受賞に期待がかかる。 

 エングラム(記憶痕跡/それを担う細胞群)とは何か
ドイツの進化生物学者リヒャルト・ゼーモンは、1900年代初頭、「記憶は痕跡として残る」と考え、これをエングラム(engram)と名付けた。しかし当時は記憶の場所を特定できず、研究は停滞した。

 2010年代になり、利根川進先生らはエングラムの概念を実験的に示すことに成功し、脳と記憶の研究を大きく進展させた。

 利根川進先生の記憶を追跡した、画期的な業績を紹介ます

 利根川先生の研究グループは、マウスを用いて恐怖記憶の実験を行った。
1.恐怖体験の際、多数の神経細胞の中で一部の特定の神経細胞群が活動することを確認した。

2.活動した細胞ではc-fos遺伝子が自然に発現することを利用し、その細胞だけに光で反応するタンパ   ク質(チャネルロドプシン)を発現させる仕組みを導入した。

3.青色光を照射すると、その細胞だけが発火することを確認した。

4.その細胞を発火させることで、実際の刺激がなくても恐怖記憶がよみがえることを実証した。

5.記憶はエングラム細胞(記憶に関与する神経細胞群)として脳に保存されている可能性が高く、光で再び呼び起こすことができることが示された。

 このプロセスを分かりやすいイラストにしてほしいとAI(ChatGPT)に「相談」したところ、数秒後にこのようなイラストを提案してきた。事実関係に即した非常にわかりやすいイラストなので掲出した。

 記憶とは何か。1900年代初頭に提起されたエングラム概念が、利根川先生によって、初めて記憶の細胞レベルの解明に一歩踏み込んできた。記憶を持つ神経細胞群(エングラム細胞)を特定し、人工的に記憶を呼び戻すことに成功した。

 こうした基礎研究の進展で記憶の強さを調整できないかという考えが出てきた。これができるとうつ病やPTSD(再体験症状、恐怖体験などがよみがえる症状)、アルツハイマー病などの治療に応用できないか。

 あるいは記憶を取り出して回復させたり、感情の過剰な反応を抑えることもできるかもしれない。AIと脳科学の成果が相乗効果を発揮する世の中になるとどうなるのだろうか。

 AIが脳のデータを解析し、脳と機械の接続によるシステムができるかもしれない。熟練技術者のスキルをこなすロボットなどの実現だろうか。人間が心の中で思っただけで機械操作だってできるかもしれない。

 際限なく脳と記憶の未来を語ることが可能になってきた。50年の歳月で科学の進歩を知ったテーマであった。

コメント

タイトルとURLをコピーしました