「天の配剤」と言うべきか
1970年夏ごろ、社会部内で配置替えがあり、筆者は2年弱のサツ回りを修業し、29歳の秋に遊軍に昇格した。サツ回りの初日に、3億円事件に遭遇し、さらに過激派学生運動の真っ只中でヘルメットと無線機を身に着け、死ぬ思いで取材して原稿を書きまくった。他にも様々な警察ネタが多数あり、社会面は犯罪ネタだけで埋まることもあった。そのような時期に最前線で記者活動をしたことは、幸運であった。のちのち、そう思うことが度々あり、それだけ濃縮された2年弱だったのだ。
この期間に体験した事件記者としての基本的行動、取材方法、原稿執筆のスキル、報道センスは、筆者の新聞記者としての骨格作りに多大な影響を与えてくれた。ところが、それに続いた2年余も、それに上乗せするような価値ある取材体験になる。これは「天の配剤」であり、運がよかったとしか言いようがない。そのことをこれから暫く、書いてみたい。
中澤デスクから突然の通告
ある時、中澤道明社会部次長(のち編集局参与)に声を掛けられ、喫茶店で雑談をした。中澤デスクとは、サツ回りのとき、高校紛争の連載記事「高校バリケード」を担当したので気安く話が出来た。
ベトナム戦争の最盛期と返還前の沖縄の常駐特派員をしたり、世界中を移動特派員として取材してきた社会部では珍しい国際記者であり、名文家としても知られる看板記者であった。物腰は柔らかく紳士的であり、気さくで楽しい会話ができる方だった。中澤さんは誰に対しても「さん付け」で呼ぶのがクセだった。中澤さんが、突然言い出した。
「馬場さん、来年1月から、大型連載企画を一年間やる。テーマはまだ固まっていないが、大脳生理学とライフサイエンスをやりたいんだ。親玉は、あなたもよく知っている辻本芳雄さんだ。これに入ってくれないか」
辻本さんは当時、編集局総務(編集局長代理)をしている雲の上の人だが、筆者が入社する前から文部省統計数理研究所にバイトで世論調査の統計数理を研修させられたときのボスであり、入社のときの保証人でもあった。
ライフサイエンスという言葉はまだ広がっていなかったので、筆者は頭の中で「生活かがく?」いや「人生かがく?」と、トンチンカンなことを考えていた。よく分からないが中澤さんがデスクなら出来るかなと思い、参加したいと伝えた。すると、いきなり「宿題」が出された。時実利彦・東大教授か刊行した「人間であること」(岩波新書)を読んで欲しいという。「急いでいるんだ」とも言った。
中澤デスクは言い放った「新聞記者に文系・理系は関係ない」
言われてすぐ、銀座の近藤書店に走り、買い求めて読み始めた。この本は今でも書店の棚に並んでいる不朽の名著である。筆者は一晩で読了して感動した。大脳生理学者の立場から、人間の行動や思索を科学的な根拠を入れながら語った本で、今でも何かを確認するために開くことがある。「不朽の名著」と言う言葉は、この本のためにあるのではないか。1970年初版の本が、版を重ねて2021年には71刷になっており、今でも書店の新書版のコーナーで見かける。

翌日、中澤デスクに感想を伝えると、その日午後から大型企画のミーティングをやるから出るように言われた。翌年の1月から始まる年間企画だから、社会部のつわものが顔をそろえるのだろうか。言われた会議室に行ってみると、中澤デスクと石井惇・論説委員が、移動式の白板にメモをしながら議論を始めていた。会話を聞いていると、大脳生理学とライフサイエンスの最先端研究成果を取り上げるという。ミーティングの内容を書き留める書記役を命じられ、理解できないままメモしていくと、時実先生の著書の話も出てくる。2人ともすでに読んでいるのだ。もっと驚いたことは、次の日、時実先生の自宅に取材に行くので、一緒に来るようにという。こうして大企画の助走が始まった。会話の内容は理解できないことが多かったが、なぜ社会部がこのような先端科学を担当するのか。編集局には科学部があったが、社会部がやるという。中澤デスクは慶應義塾大学法学部卒の文系だが、「馬場さん、そんなことは新聞記者には関係ありませんね」とさりげなく言われた。

時実利彦先生
3ヶ月先には年が変わる。年間企画は、毎週、日曜版の1ページを使って「ド派手にやりましょう」と楽しそうに言う。しかも中澤デスクと筆者の2人だけの担当で、デスク自ら原稿を書くとも言う。半ば信じられない気持ちだったが、ともかくもこの企画準備にどっぷりとはまり込んでいく。
「大デスク」になった時実先生
時実先生の自宅に伺うと着物姿で応対され、中澤デスクの説明を聞いていた。デスクが「社会部らしく、すべての読者に理解でき、興味を持たせるような啓もう記事にします」というようなことを語ると、時実先生は「時宜にかなった素晴らしい企画ですね。大脳生理学の研究では、世界に通じる日本人研究者が10人近くいますから、紹介しましょう。私から電話をしますから、取材に行ってください」と応じる。
先生は「出来たら取材した人に謝礼を出してもらえると有難い」とも言う。中澤デスクが「はい、かしこまりました」と応えている。時実先生はこのころ、がんにり患し、自宅で闘病中だったので、早々に引き上げた。すぐに速達で先生から取材するべき先端研究者の名前と所属と研究テーマとコメントを書いた手紙が送られてきた。その素早さには驚かされた。
コメントには、興味あふれる研究取り組みと世界の動向が簡潔に語られており、中澤デスクは「これはすごいねえ。これから時実先生を大デスクと呼ぼう」と語った。
辻本さんが命名した「人間この不可思議なもの」
この連載は1971年1月17日から、日曜版の1ページを割いて1年間掲載することが決まり、担当は中澤デスクと筆者の2人だけと言う。毎週、1ページを埋める原稿を2人で書く。しかも大きなイラストを入れたいので、写真部経由で若手のいいイラストレーターを探しているという。
兵隊(ヒラの記者を業界言葉ではこういう)は筆者ひとり。毎週、1ページを埋めていく。中澤デスクも一緒に取材して原稿を書くというが、少々「無理」ではないかと筆者が言うとデスクはこう言った。
「やっても見ないうちから心配するのは止めようよ。人手が足らなくなったら足せばいい。とにかく走り出そう」
この企画を提案した辻本さんの席に連れて行かれ、中澤デスクから「この2人で走り出します」と言うと「それがいい。おもろいものを書いてくれよ」と関西弁なまりで応じる。辻本さんは、読売新聞では伝説的な名記者であり科学的な知識と興味は人一倍強かった。原子力利用が叫ばれ始めた時期「ついに太陽をとらえた」という連載記事を社会面で展開し、原子力の平和利用を説き、核反応の理屈を分かりやすく解説した記事を書いた人だった。学歴は「中卒だねえ」と自ら言っていた。読売新聞社会部に雑用バイトで勤めているうち認められて記者になった方で、関西弁の優しい言い方で実に楽しい話をする方だった。
「タイトルは、人間この不可思議なもの、でどうかな」と言う。どこかで聞いたような言葉だが、これは1935年に出版されたフランスのアレクシ・カレル(1912年にノーベル生理学・医学賞受賞)の著書「人間この未知なるもの」から取ったものと分かった。この企画は当時編集局総務(社会部長の上の上くらいのすごいポスト)にいた辻本さんが、社会部長を通り越して中澤デスクに直々に下命して始まったことが分かった。
参考文献を読む日々
1970年の秋から年末にかけて、筆者は死に物狂いで大脳生理学とライフサイエンス(生命科学)の文献を読み漁った。こんなに勉強したことは、今までの人生でもない。ゼロからの出発であり、指導する人もいない。中澤デスクと2人で日曜版編集室で、終日、文献を読む日々が始まった。必要な文献類はすべて当時銀座にあった近藤書店からツケで購入していいと言われ、たちま机の上は様々な文献類と書籍・資料で埋まっていった。
中澤デスクは、実に楽しそうにして文献を読んでいて、こちらに時おり話しかけてくる。お茶とランチはいつも一緒に外に出て論議を重ねる。それがだんだんと楽しくなり、専門的に分からないところは書き出して研究者に聞く段取りを進めていった。このような手法は、後年、筆者が記者活動をする際にも生かされ、どんなに専門的で難しいテーマでも、抵抗なく取り組むことができるようになった。


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